出発前日、マニュエルにチームの広報へ電話を入れてもらうように頼んだ。
「記者会見は十一時に始まるってよ。2時間あれば着くだろうから、8時半に俺の家を出ることにしよう」
 モンペリエからマルセイユまでは、約百二十五キロ。充分に余裕はある。
 気がかりだったのは、マニュエルの愛車だった。ずっと前から古いシトロエンは故障がちだった。念のためレンタカーを使って、マルセイユに向かうことにした。

 マニュエルの家に泊まっていたぼくは、朝7時に起きると、一階の台所のテーブルでトルシエへの質問事項をまとめることにした。
 日本語で質問を考えて、スペイン語に翻訳。マニュエルはこの質問項目を見て、フランス語でトルシエに尋ねることになる。
 誤訳が生じないためには、できるだけ簡潔にしなければならない。何度も書き直し、できあがった頃には出発の時間になっていた。
 ところが――。
 近くのレンタカーショップに行ってみると、店員は書類を持ったまま、店の奥に消えてしまった。せっかく早起きしてきたのに、どうなっているのだ。ぼくは腕時計を見て焦っていた。
 結局、青色の日産ミクラが出てきたのは、9時半になっていた。ミクラは日本ではマーチと呼ばれている小型車である。
「心配しなくて大丈夫さ」
 モンペリエの街中を抜けると、マニュエルは、アクセルを強く踏んだ。
 スピード計は、百三十キロを越えていた。フランスは都市を結ぶ幹線道路が整備されている。いつも調子の悪いシトロエンの鬱憤を晴らすかのように、マニュエルはアクセルを踏み続けた。
「ところで、マルセイユの街に入ってからの道順は大丈夫? 昨晩、クラブハウスまでの道順をプリントアウトするように頼んでおいたよね」
 マニュエルはぽかんと口を開けると、額を軽く叩いた。
「忘れた」
「地図は?」
「ない」
 日本とは違い、レンタカーには便利なカーナビはついていない。
 困ったことに、マルセイユの街は入り組んでおり、迷いやすいことで知られている。
「マルセイユの街に行ったことは?」
「何度かある。街に着いて、人に尋ねれば大丈夫さ。ロエーム(オリンピック・マルセイユの愛称)のクラブハウスだったらみんな知っているよ」
 確かに、ロエームはフランスで最も人気のあるクラブだ。街の人間が知らないはずがない。
 青色の標識に書かれたマルセイユまでの距離がしだいに短くなっていった。マルセイユの街に入ったのは、予定よりもずいぶん遅れて11時になろうとしていた頃だった。

 マルセイユはフランス南部の他の街と少々趣を異にする。港町のせいか、開放的で、どこかブラジルのリオ・デ・ジャネイロに似ていた。
 ポール・モネット原作の映画『スカーフェイス』で、アル・パチーノ演じるキューバ人の主人公は、軍を脱走、貨物船に乗ってアフリカからマルセイユに着いたことを思い出した。旧市街はうらぶれた雰囲気で、太い腕に入れ墨をした荒くれ者の船員が曲がり角から現れそうだった。
 マニュエルは速度を緩めると、窓を開けて歩いていた人にクラブハウスの場所を尋ねた。
 最初に尋ねた白髪の婦人は、「知らないわ」と首を振った。続けて尋ねた婦人も同じだった。
「おかしいな」
 マニュエルは首を傾げた。
「女性じゃ駄目だよ。若い男に聞かないと」とぼくは思わず声を荒げた。二人ともいかにもサッカーに興味のなさそうな、品の良さそうな婦人だったのだ。
 車を走らせて、歩いている男を捜した。しかし、太陽の日差しは強く、歩いている人間は少なかった。今日は金曜日、平日の午前中にうろうろ歩いている人間は多いはずがない。
 時計は十一時を過ぎていた。
 車を止めて降りようとしている男がいた。白いプジョーのリアウィンドウには、水色と白のロエームの大きなステッカーが貼り付けられているのが見えた。
 君こそ探していた男だ。マニュエルは車を止めると、大きな声で男を呼んだ。
「ロエームのクラブハウスへの行き方を知っているかい?」
 男は首を振った。
「知らない」
 このステッカーは何なのだ。ロエームに愛情はないのか。
 何人目かで、ようやく場所を知っているという老人に当たった。老人は困った顔をして「ちょっと分かりにくい場所にある」と言った。
 マニュエルは老人の説明に何度も頷き、礼を言うと車を急発進させた。車は坂を上り始め、右に左に曲がった。言われた通りの道を走っていたのか、そもそも道が間違えていたのか。それらしき建物は一向に現れてこない。
 どうも迷ったようだ。
 折角レンタカーを借りたというのに、記者会見に間に合わないなんて……。
 楽天的なマニュエルも困った顔になっていた。車を停めると、ちょうど男が角を曲がってくるのが見えた。マニュエルが大声で尋ねると、男は指を回して戻るように指示した。行き過ぎたようだった。大急ぎで来た道を戻ることにした。

 丘の上にある、ロエームの練習場に着いたのは、十二時近くになっていた。一時間近くマルセイユの街で迷っていたのだ。
 サッカーのピッチが4面以上とれそうな芝のグラウンドの中では、赤いビブスを着た選手が何人か固まって座っていた。グラウンドの横を早足で歩いていると、綺麗にそり上げられた頭が見えた。
 見覚えのある顔――フランス代表ゴールキーパーのファビアン・バルテズだった。丁度練習が終わったばかりのようだった。
 ということは、トルシエはまだこの辺りにいるのか。
 一縷の希望を持ちながら、クラブハウスに入ると、地元の記者が数人退屈そうに椅子に座っていた。
「記者会見は終わった?」
 マニュエルが尋ねると、中の一人が伸びをしながら答えた。
「これからさ」
「トルシエはまだここにいるんだな?」
「そうだろうよ。今日はまず選手の記者会見をやって、そのあとトルシエがここに来る」
 良かったなとマニュエルはぼくの肩を叩いた。わざわざ来た甲斐があった。
 ところで、いったい記者会見は何時からなのだ。マニュエルは昨日、開始時間を確認したはずだ。これがマルセイユ流なのか――。

(Vol.3へつづく)


田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。2010年1月28日『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)を刊行、さらに3月『辺境遊記(仮)』(絵・下田昌克、英治出版)を刊行予定。




◎バックナンバーはこちらから