「小学校2、3年生の頃かな。初めて父親にグラブを買ってもらった。僕はもう、うれしくて寝られないわけです。で、学校から一目散に帰ってグラブを手にすると、なんと綿が全部抜いてある。もう何ちゅう親かと思いましたよ」。桑田真澄が苦笑まじりに、そんな昔話を披露してくれたのは、彼が巨人のエースと呼ばれるようになった頃だ。
「いい捕り方をしないと痛い。そのために綿を全部抜いてしまったと?」「そういうことです。しかもキャッチボールの時、パチーンと音を出さないと怒るんです。僕はキャッチボールのたびに泣いていました。父親も同じように綿のないグラブを使うんですが、小学校の頃は、とにかくオヤジが捕れないようなボールばかりを投げてやろうと、そればかり考えていました」

 まるで劇画『巨人の星』の星一徹と飛雄馬を地で行く関係である。星家にあって桑田家になかったものといえば“大リーグボール養成ギプス”くらいか。
 桑田はさらに続けた。「空き地で父親とキャッチボールするでしょう。父親が構えているミットにバチッと投げないとボールを捕ってくれないんです。こっちはヘトヘトになってボールを追いかける。で、またミットの位置にいかないと走って取りに行かされる。ホント、何回、ボールを(父親目がけて)投げつけてやろうと思ったか分かりませんよ」

 17日、火災による一酸化炭素中毒で亡くなった桑田の父・泰次さんから直筆サイン入りの著書『野球バカ』(講談社)が送られてきたのは今から10年前だ。刺激的なタイトルではあったが、中身は実にオーソドックスで、アマチュア野球のコーチに薦めたくなるような一級の指導書だった。
 たとえば、こんなくだりがある。『ピッチングを教えるときも同じだ。「手を体の前で振れ」と言葉でいっても、なかなかできない。だから、私は開いた傘を持って子供の横に立ち、「このまま放ってみろ」といった。障害物があると、人間は自然とそれを避けようとする。球離れが早いと傘にボールが当たってしまうため、長くボールを持って前方で投げるようになるのだ』

 悲報に接して桑田は言った。「(オヤジは)僕にとって最初で最高の指導者でした」。これ以上の手向けの言葉はあるまい。ご冥福をお祈りしたい。

<この原稿は10年1月20日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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