高校2年の夏、高知県大会決勝で高知商業に敗れた明徳義塾高校野球部には大きな変化が訪れる。新しい監督が就任したのだ。30代の青年監督は、熱い指導で選手たちを鼓舞した。
「とにかく勝ちにこだわる監督でした」。当時の監督の印象を、津川はこう振り返っている。
 1990年秋、明徳義塾を率いることになったのは馬淵史郎だった。後に馬淵の下で全国優勝を果たす明徳義塾だが、当時、まず越えなければいけない壁は高知県内に存在した。新監督が掲げた目標はただ一つ、「打倒・高知商業」だ。この目標を胸に、明徳ナインは一年間、猛練習に取り組むこととなる。
 新チームで4番を任された津川も、これまでの指導者とは違うこだわりを感じていた。
「1度も倒したことがなかったからでしょうが、監督の高知商に対する想いは相当強かったです。振り返ってみると、あの1年間は“高知商業に勝つんだ”ということばかりを言い聞かされていたように思います(笑)」
 精神面強化のために選手に向けられたのは言葉だけではなかった。冬の寒い時期に1日45キロものランニングを課されたこともあった。ここ一番で勝てないナインの気持ちから改革しようとする馬淵の信念がそこには存在した。

 宿敵を倒した高3の夏

 そして迎えた高校最後の夏の大会。津川をはじめとした明徳ナインはライバル打倒を目標に県予選に臨んだ。しかし初戦の伊野商業戦は思わず苦戦を強いられる。9回2死まで2点のリードを許す苦しい展開となった。だが、そこから執念の追い上げを見せ、最後は4番・津川が3ランホームランを放ちサヨナラ勝ち。あと1人からの大逆転劇は、これまで気持ちの弱かった選手たちの成長を顕著に示すシーンだった。

 その後は順調に勝ち進み、準決勝でついに高知商業と激突した。この試合に全てをかけていた明徳義塾は初回に3点を奪い、一気に流れを掴む。だがライバルも負けじと序盤に2点を返す。明徳義塾は中盤に追加点をあげるも7回、8回に相手に追加点を許す。準決勝は一進一退の好ゲームとなった。そして、最後に笑ったのは明徳義塾だった。8回裏に1点を勝ち越し、そのまま9回を0点でしのぎ切り、6対5で高知商業を下した。明徳義塾が夏の県大会で、初めて高知商業越えを果たした瞬間だった。
「とにかく達成感で、選手も監督も本当に喜んでいました。口では“まだ決勝があるぞ!”と言っていましたが、全員がたぶん大丈夫だろうと感じていました」
 津川の言葉どおり、高知商業というライバルを下した明徳義塾にとって、決勝戦は難しいものではなかった。追手前高校を2対0の完封勝利で下し、7年ぶり2回目の選手権大会出場を決めた。

 プロへの扉を開いた甲子園

 高校球児憧れの甲子園に立った明徳ナイン。多くの選手が緊張する大舞台でも、津川は意外にも落ち着いていたという。
「高知商業に勝つまでがしんどかったので、その後は勢いでプレーできました。のびのびやっていこうという気持ちで甲子園に行きました」
 
 初戦の相手は市立岐阜商業戦。この試合は津川の運命を決める1戦となった。
 4番・ショートで先発した津川はいきなり大仕事をやってのける。1回裏1死1、2塁。カウント1−0からの2球目だった。インコースのストレートを思い切り振り抜いた。快音が響いた瞬間、レフトが打球を追いかけ後方へ下がっていく。打球は彼の頭上を通過し、ラッキーゾーンへ飛び込んだ。大舞台でのファーストスイングが先制の3ランホームランとなった。
「甲子園で試合をしている感覚は、これまでと全然違いました。普段の自分ではないような……。それが逆にリラックスしてプレーできた理由かもしれないです」
 さらに5回裏。津川の3打席目は1死ランナーなしの場面でやってきた。ここで津川が振り抜いたのは変化球だった。高く舞い上がった打球は再びレフト後方のラッキーゾーンへ吸い込まれていった。甲子園で1試合2ホームランの快挙達成。これは夏の甲子園で史上23人目、25度目の記録となった。試合は6対0で明徳義塾が勝ち2回戦へ駒を進めた。

 この活躍で津川は一躍、注目スラッガーとして全国にその名を知らしめた。翌日のスポーツ紙には自分の名前が大見出しで躍っていた。2回戦で明徳義塾は沖縄水産に5対6で敗れ甲子園を後にしたが“1試合2ホーマーの強打者”は注目高校生としてプロのスカウトの視線を集める存在となった。
 そして、津川は91年ドラフト会議で野村克也監督が率いるヤクルトスワローズから4位で指名を受ける。プロ野球選手として、野球留学先の高知から東京へ戻ることになったのだ。

 ルームメイトはマイペースの大投手

 この年のスワローズドラフト1位は津川と同じく高卒選手だった。後にヤクルトのエースとして日本一獲得に大きく貢献し、メジャーリーグでも活躍する石井一久(現・埼玉西武)だ。同級生の津川は入団直後に寮に入ると、石井と同じ部屋となった。「石井はすごくマイペースですが、当時から野球のこととなると、すごく真面目だった。入ったばかりの頃からすごい球を投げていました。彼は1年目でも半分くらいは1軍に行っていましたから」と津川は当時を振り返る。
 現在はパ・リーグ審判として活躍しているため、石井一とはグラウンドで顔を合わせることになる。もちろん、2人の立場上親しくすることは厳禁だ。すれ違っても挨拶をする程度で、お互いの仕事をこなしている。

 プロでは長く2軍での生活が続いたが、6年目となる97年にはイースタンリーグ首位打者を獲得している。この時、イースタン打率2位だったのが入団1年目のチームメイト、岩村明憲(現・パイレーツ)だ。
 ヤクルトはこの年、セ・リーグで圧倒的な強さを見せ首位を独走、9月28日には野村監督となって4回目のリーグ優勝を決めている。優勝決定戦から移動日を挟んだ中日戦で、津川にとって念願のチャンスが巡ってくる。自身初となる1軍昇格の知らせを受けたのだ。

 プロ初出場となった9月30日中日戦は、ナゴヤドームでの試合だった。スタメンに古田敦也、池山隆寛など主力が名前を連ねる中、「8番・ライト」で津川も先発出場を果たした。中日の先発投手は山本昌。夢にまで見た公式戦デビューだ。1打席目は内野フライ、2打席目が内野ゴロ。3打席目では代打・稲葉篤紀を送られてしまった。次戦もベンチに入ったものの出番はなし。翌日には再びファーム行きが告げられた。
「1軍に上がった時は嬉しかったのですが、すぐに落とされてしまったので……。嬉しさ半分、悔しさ半分というところです。野村監督から何かアドバイスをもらう間もなく、逆戻りになってしまいました。来年もまたがんばろうという気持ちでいましたね」

 しかし、津川にチャンスが巡ってくることはなかった。イースタンの試合には出場するものの、2シーズン1軍への昇格機会は与えられず、99年オフに戦力外通告を受けてしまう。プロ通算2打数0安打。これがプロ野球選手としての津川の成績となった。

(第3回につづく)

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<津川力(つがわ・ちから)プロフィール>
1973年5月1日、東京都東久留米市出身。小学3年からリトルリーグに所属し野球を始め、中学1年から高知県明徳義塾に野球留学。高校では3年夏に甲子園に出場。初戦の市岐阜商戦で1試合2ホームランを放ち注目を集める。92年、ドラフト4位でヤクルトスワローズに入団。イースタンリーグで首位打者を獲得するものの、1軍出場は通算1試合にとどまる。99年に現役引退後、2000年にパシフィックリーグ審判部に入局。1年目のシーズンとなる01年10月2日に塁審として初出場、翌年9月27日には球審を経験。その後も順調にキャリアを重ね、08年日本シリーズ審判団に加わり第4戦で球審を務める。09年終了時点までに766試合に出場。182センチ、80キロ。




(大山暁生)
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