1999年10月にヤクルトスワローズから戦力外通告を受けた津川は、現役の道を摸策するべく入団テストに臨んだ。受けたのは西武ライオンズとオリックスブルーウェーブの2球団。藁にもすがる想いで現役続行に向けて行動を起こした。しかし、結果は両チームともに不合格。津川のプロ野球選手としての生活は26歳の若さで幕を下ろした。
 プロ選手ではなくなるとはいえ、生活をしていかなければならない。津川はこの時、すでに結婚をしており、家族を養っていかなければならなかった。当時の様子を妻・麻生はこう振り返る。
「プロ野球選手への未練はなかったように思います。やるだけのことはやったという充実感があったようです」

 引退後はアルバイトも経験

 入団テストの結果を受け、引退後の生活を考えていた時、ある人物から声をかけられた。
「野球に関わっていきたいのなら、プロの審判になるのはどうだ」
 選手が審判に転向する――。津川の頭の中には全くなかった発想だった。そもそも審判の仕事とはどんなものかも知らなかった。
「正直に言ってしまうと、現役時代には審判はただグラウンドに立っているだけの存在だと思っていました。どんな動きをしているのか全く気にもしていませんでした」
 現在、NPBで審判を務める者の多くがアマチュア野球から審判を続け、その延長線上にプロの舞台があるという。そんな中、津川はプロ野球を引退後“もともと好きな仕事というわけではなかった”審判の道を志すことになった。

 しかし、プロ野球審判になるといっても、その道は容易なものではない。そもそもプロの審判は募集されることも少ないのだ。津川が現役を退いた99年オフには、セ・パ両リーグともに公募がなかった。採用試験を受けることができるのは早くても1年後。2000年の1年間は、宅配便のアルバイトをしながら家計をつないだ。朝から夕方まで一般のサラリーマンのように仕事をこなした。
「次の年には採用試験があると聞いていたので、アルバイトも辛いと思ったことはありませんでした。仕事で忙しかったので、球場に足を運ぶことはほとんどなかったですね」
 忙しい日々の合間に時間を見つけてはルールブックを読み漁った。現役時代、ある程度のルールは頭に入っていたが、細かいことまでは理解していないことに気付かされた。試合の中ではなかなか起こりえない状況について、全く知らないことばかりだった。

 引退から1年が経った00年のオフに、津川はセ・リーグの審判採用試験を受けた。それまでに身につけた知識と動きを確認しながら課題に取り組んだ。そこそこできた感覚もあり、テストの手応えは悪くなかった。この年の合格者は2名。しかし、その中に津川の名前はなかった。1年間待って受けた採用試験だったが、津川にとってひとつ気がかりなことがあった。セ・リーグ審判員の採用には25歳以下という規約があった。この時点で津川は27歳。目安とはいえ、年齢で後れをとっていたのだ。

 1年間待って受験したテストで不採用になってしまった。この年の採用試験はセ・リーグのみだった。「また、バイト生活が続くのか」。そう思っていた津川に、ある連絡が入った。
「パ・リーグの審判に、一人欠員が出た。これからテストを受けないか?」。津川がすぐに首を縦に振った。01年1月、キャンプイン直前に届いたこの知らせで津川の運命は開けた。急遽行なわれたパ・リーグ審判の採用試験を津川は見事に突破する。球界全体が指導する春季キャンプまで日がない中、新米審判・津川力が誕生したのだ。

 いきなり参加した初キャンプ

 パ・リーグ審判員としての最初の仕事場も当然ながらキャンプ地だった。日本ハムファイターズキャンプ地の沖縄県・名護に出向き、前川芳男指導員から審判の基本を一から教わっていった。これまで選手として何度もキャンプに参加してきたが、審判として帯同するキャンプは全く未知のものだった。
「審判の仕事も、練習の仕方もわからなかったです。何をすべきなのかも、どんな声を出したらいいのかも全然知らなかった(笑)。ただ、指導員の前川さんの後ろをついていくだけでした」

 最も戸惑ったのは、ブルペンだった。プロ生活が長いとはいえ、ピッチャーの投げたボールを“打つ”のと“判定する”のでは全く世界が違っていた。
「選手としてプロのボールをある程度見てきたわけですが、キャッチャーの後ろに立ってみると、全然見え方が違うんです。最初のうちは訳がわからなくて頭の中はメチャクチャだったと思います。ストライク・ボールの判定で、“あっ、今のは違った”ということもありましたし、きっと周りの人も同じように思っていたでしょうね(苦笑)」
 いかなる仕事でも同様だが、重要になるのは経験だ。特にひとつのプレーで試合の局面を大きく変えてしまう審判という仕事では、その比重は大きくなる。キャンプでは、プレー中の動きや判定など、ある程度のことを習得したが、どうしても経験を積むことはできない。そんな中、指導員の前川からもらった言葉があった。「“とにかく失敗してもいいから思い切ってやりなさい”と教えていただきました。1年目からファームで試合を裁いて失敗したこともあったと思いますが、とにかく前向きにやることはできたと思っています」

 ファームで研鑽を積んでいた津川に1軍でのデビューの日がやってきたのは、1年目の最終戦だった。01年10月2日、千葉マリンスタジアムの千葉ロッテマリーンズ対日本ハムファーターズ戦で津川は3塁塁審として、公式戦の舞台に立った。緊張しながらも「思い切ってやろう」と前川の教えを胸に3塁ベース後方に位置し、冷静に試合を裁いた。続く2年目の02年9月27日、千葉ロッテ対オリックス戦では球審としてデビューを果たす。2年目で球審を務めるのは異例の早さだ。津川の正確なジャッジと毅然とした立ち居振る舞いが現場の信頼を得た結果といえよう。

 1シーズンでおよそ100試合に出場

 津川は主にパ・リーグの関東地区での試合で審判を務めている。シーズン中は球場のある札幌・仙台・千葉・所沢を忙しなく移動する毎日だ。1シーズンで審判を務めるのはおよそ100試合。控え審判として待機する試合を含めると、ほぼ全試合で球場に足を運ぶことになる。
「審判は4人のチームプレーで試合を裁かなくてはいけません。個人で判断しなければいけないことも多いですが、連係する場面も多いので審判団の連帯感は大切です。そこがうまく機能しなければ、試合がうまく運ばないこともあります。だからこそ、毎試合後には反省会を行なっています。みんなで試合をよくしていこうという話し合いですね」

 審判は1塁、2塁、3塁と塁審をローテーションした後に球審を務め、翌日の試合は控えに回ることが多い。津川は09シーズンでは球審を29回務め、100試合前後に出場している。前述の通り移動も多く、体が基本の仕事なのだ。その部分ではプロ野球選手も審判も重なることが多い。シーズンが始まれば、休むことなく試合と移動の毎日となる。津川にとって9年間のプロ野球生活が審判として働く土台となっていることは間違いない。選手としてはわずか1試合のみだった公式戦出場も、審判としては766試合のキャリアを積んだ。今後もその数字は順調に増えていくはずだ。

(第4回につづく)

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<津川力(つがわ・ちから)プロフィール>
1973年5月1日、東京都東久留米市出身。小学3年からリトルリーグに所属し野球を始め、中学1年から高知県明徳義塾に野球留学。高校では3年夏に甲子園に出場。初戦の市岐阜商戦で1試合2ホームランを放ち注目を集める。92年、ドラフト4位でヤクルトスワローズに入団。イースタンリーグで首位打者を獲得するものの、1軍出場は通算1試合にとどまる。99年に現役引退後、2000年にパシフィックリーグ審判部に入局。1年目のシーズンとなる01年10月2日に塁審として初出場、翌年9月27日には球審を経験。その後も順調にキャリアを重ね、08年日本シリーズ審判団に加わり第4戦で球審を務める。09年終了時点までに766試合に出場。182センチ、80キロ。




(大山暁生)
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