前インディアンスの大家友和に最近、会ったのは今年2月のことだ。自らが通う立命館大学びわこ・くさつキャンパス(滋賀県草津市)でウエイトトレーニングに励んでいた。

「今年の(選手獲得の)動きは全体的に遅いですね。大物が決まらなければ、僕らのような立場の選手の方向性も決まってこない。まだ、ちょっと時間がかかりそうですね」
 淡々とした口調でそう話していた。
 NPBでは、わずか1勝しかあげていないため、「大家って誰?」という日本人も少なくないが、彼がメジャーリーグで記録している51勝は、日本人投手としては野茂英雄の123勝に次ぐ。昨季にはメジャーリーグ通算1000投球回も記録したものの、わずか1勝(5敗)しかあげることができなかった。
 大家は早熟なメジャーリーグファンだった高校生の頃からアスレチックスの帽子を被っていたというのだから、筋金入りだ。
「当時、京都にメジャーリーグ関連のショップはなかった。いろいろと探すとジーンズ屋さんに置いてあったんです。アメリカから直輸入したんでしょうね。そんなの探す高校生なんて僕くらいやったでしょうね」

 1994年に京都成章高からドラフト3位で横浜に入団し、5年間在籍した。本人によれば、「うだつのあがらない選手」だった。
「最後の5年目は2軍で最優秀防御率も獲ったんです。でも僕には(1軍で投げる)チャンスがほとんど与えられなかった。当時の権藤博監督は“このままいても使ってやれるかどうかわからない”と言っていたそうです。
 アメリカ行きはある日、突然決まりました。なぜ希望が受け入れられたのか、実は僕もわからないんです。ただ、横浜でも頑張ろうとは思っていましたが、もう気持ちはアメリカに飛んでいたので、素直にうれしかったですね」
 松坂大輔(レッドソックス)や井川慶(ヤンキース傘下)のように鳴り物入りで海を渡ったわけではない。ひっそりと渡米し、マイナーリーグで腕を上げ、最高峰への舞台へと駆け上がった。02年にはエクスポズで13勝をあげている。

 しかし、まだ思い出に浸るには早すぎる。
「メジャーでの51勝の中で最も印象に残る勝利は?」と問うと、
「僕の中では、まだないですね」と答え、続けた。
「ピッチャーって、自分の思い通りのピッチングができれば、たぶん、30勝くらいできると思うんです。いつも、もっとうまくなりたい、もっといいボールを投げたいと思うことの繰り返しですよ。だから51勝と言われてもピンとこないですね」

<この原稿は2010年4月4日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

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