「江夏の21球」については、作家の山際淳司さん(故人)をはじめ、いろいろな書き手があらゆる角度から検証を試みている。
1979年の日本シリーズ第7戦。9回裏、4対3と広島、1点リード。
しかし近鉄も反撃を開始し、無死満塁。広島にとっては絶体絶命の場面である。
ここで近鉄は“左殺し”の佐々木恭介を代打に送る。江夏豊は渾身のカーブで三振に切って取るが、依然としてピンチであることに変わりはない。
近鉄のバッターは右の石渡茂。
結論から言えば、江夏は1−0のカウントからウエストボールを投じ、スクイズを失敗に終わらせるのだが、なぜ江夏はスクイズを見破ることができたのか。
知られざる真実をキャッチャーの立場から明らかにしたのが、この場面でバッテリーを組んでいた水沼四郎である。
自著『江夏の21球をリードした男』(ザ・メディアジョン)でこう書いているのだ。
実は水沼と石渡は中大時代のチームメイトで気心の知れた間柄だった。
<やってくるのなら、この場面でしかない。サインは誰からだ、どのタイミングで出るんだ。緊張した場面で、私はなぜか冷静でいられた。
「大丈夫。自分は落ち着いている」
そう感じられたことも、落ち着いている証拠だった。そしてバッターボックスに入る石渡に一言つぶやいてみた。
「いつやるんだ? スクイズしかないのぉ」
普段なら、冗談交じりで返してくる石渡が、このときはじっとグラウンドを見つめ、何もしゃべろうとしない。私の声に耳を貸さない。いや、全く耳にとどいていなかったのかもしれない。
「絶対に何かある」
石渡の様子から、その思いは確信へと変わった。スクイズがあることは確実だった。
でも、どのタイミングで……。私はこの場面でタイムを要求し、スクイズがあることを、あえてナインに伝えなかった。もし私がタイムをとったら、近鉄ベンチはスクイズのサインを出さないかもしれない。>
まるで上質のミステリーを読んでいるような緊張感がある。
私も「江夏の21球」についてはいくつかの雑誌で検証を試みたが、不覚にもキャッチャーの水沼とバッターの石渡が中大時代のチームメイトだったということには気付かなかった。
そうか、そういう因縁があったのか。マウンドの江夏豊にばかり視線を向けていたため、キャッチャーとバッターの関係にまで思いを巡らせることができなかった。
<セットポジションから、ゆっくりと江夏の足が上がったその瞬間、横目で3塁ランナーの様子を確認した。その一瞬、目を疑った。3塁ベース付近にいるはずの藤瀬史朗の姿が、すでにそこにはない。猛然とホームに突進してくる姿が次の瞬間、私の目に映った。
「やばい、来た!!」
異常に早い藤瀬のスタート。藤瀬の姿をつかまえた瞬間、私はウエストボールの構えをとった。
カーブを要求し、カーブの握りで、カーブの腕の振り。そしていきなり走り出したランナーと、とっさに立ち上がったキャッチャー。江夏の投じたスローカーブは、飛びついた石渡のバットを外れ私のミットの中に収まった。江夏だからこそ成しえたカーブでのウエストボールだった。>
キャッチャーの水沼は石渡のいつもとは違う振る舞いからスクイズを見破ったが、マウンド上の江夏はファーストランナー平野光泰の不敵な笑みを見て「これは何かあるな」と直感したという。
というのも、学年は江夏がひとつ上だが、二人は大阪で甲子園出場を争った間柄だった。
江夏は大阪学院のエース、平野は明星の主力打者。
サウスポーは必然的に1塁ランナーと目を合わせる。古くから知る塁上の平野の不敵な笑みは、近鉄ベンチの作戦を読み解くに十分なシグナルだった。
このように「江夏の21球」は調べれば調べるほど新しい事実が浮かび上がってくる。その意味で「江夏の21球」はプロのノンフィクションの書き手にとっては宝の山と言えよう。
昨年11月、絶体絶命の場面でサードを守っていた三村敏之が心不全のため死去した。
生前、三村からも驚くべき話を聞いている。それはまた別の機会で。
<この原稿は2010年4月23日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>
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