「カナダは自分を裏切らない」
 バンクーバーパラリンピックで日本を初の銀メダルに導いた中北浩仁にとって、カナダは縁の深い国だ。初めて訪れたのは中学1年の夏。夏季休暇を利用してアイスホッケースクールに通い、カナダという国に魅了された。それから毎年夏になると同国へ渡った。そして高校はカナダの強豪校ノートルダム高校へ進学。約3年半、厳しい競争の中、技を磨いた。そんな彼のアイスホッケーのルーツとなったカナダで開催されたパラリンピック。 そこで輝かしい成績を残したことに中北は運命めいたものを感じている。
(写真:高校、大学での留学経験が今に生きている)
 アイスホッケーと出合ったのは、6歳の頃だ。母親が営んでいた喫茶店の常連客が会社でアイスホッケーチームをつくっており、冬場になると近くのリンクで練習をしていた。いつも喫茶店の中をチョロチョロしていた中北は、彼らに誘われるようにしてスケートを始め、そしていつの間にかアイスホッケーの世界にどっぷりと浸かるようになっていった。

「アイスホッケーの何がそんなに面白かったかと言われても、よくわからないんですよ。その頃はとにかく大人と戯れるのが嬉しかった。チームで遠征に行く時は僕たち子どもも連れて行ってくれるんです。小さいバスを借りてね。僕らは道具の上に詰まれて……そんなのが楽しかったんでしょうね」

 中北のアイスホッケーへの関心は日に日に高まっていった。小学6年の頃には、早くも海外留学を考え始めていた。
「雑誌を読んでいると、一つの記事に目が留まったんです。それはブリティッシュコロンビア大学(UBC)の選手たちが交代で一ヶ月、泊まり込みのキャンプで小学生や中学生を指導するというものでした。もうそれからは、カナダに行きたくて行きたくて、父親にも毎日のように言っていたんです」

 中学に入っても、その気持ちが揺らぐことはなかった。根負けした父親は夏季休暇にカナダに行くことを許可した。しかし、羽田空港からはたった一人で行くことが条件だった。
「オマエが行きたいって言ったんだからな。向こうでどうするかは自分で調べていきなさい」
 当時はまだ13歳。さすがの中北も不安に駆られたという。
「行く、と言ったはいいけど、一人で見知らぬ外国に行くのは怖かったですよ。もう空港で泣きじゃくっていましたから(笑)」
 そんな息子の姿を見た父親は、「すぐにホームシックになって帰ってくるだろう」と踏んでいたようだ。当時、現地でたったひとつしかなかった日本人が経営する旅行店に息子がいつでも帰れるように手配していたという。

 ところが、そんな父親の心配をよそに、中北は空港で泣いたこともすっかり忘れ、すぐにカナダでの生活を楽しむようになった。
「何がよかったかって、カナダ人のあたたかさでした。言葉なんてほとんどわからないし、見ず知らずの外国人なのに、みんな本当に親切にしてくれたんです。フロントの人も丁寧に接してくれましたし、宿泊していたホテルの食堂のお姉さんはトーストやジュースをサービスしてくれました」

 最大の目的だったアイスホッケーには毎日、ホテルからバスで通った。アイスホッケーへの熱い思いを胸にカナダへと渡った中北だったが、スクール生としての正式な手続きはしていなかった。しかし、冷たくあしらわれることなく、練習に参加させてもらったという。
「多分、道具を持って毎日来るし、そのうちコーチも『まぁ、いいか』なんて思ったんでしょうね。言葉は通じなかったんですけど、何か話しかけられたので、『あ、これは一緒にやれということだな』と。それからはもうやみつきになりました。コーチにはいろいろなところに連れて行ってもらいましたしね」

 あまりの楽しさに、中北は本気でカナダに残りたいと思った。しかし、帰らないわけにはいかない。帰国予定日、中北は渋々空港へと向かった。ところが、着いてみると予約していたはずの便に自分の席がなかった。リコンファーム(予約再確認)をしていなかったために、自動的に予約をキャンセルさせられたのだ。
「そのことを知った途端、僕はもう大はしゃぎ。『じゃあ、帰らなくていいんだ!』なんて喜んでましたよ。結局、予約をしなおして2日遅れで帰国しました。まぁ、後で父親にひどく怒られましたけどね(笑)」
 翌年からはきちんと登録手続きをし、正式なスクール生としてキャンプに参加した。そして、いつからか高校はカナダへ留学したいと考えるようになっていた。

 突然訪れた現役引退の日

 中学3年時には西日本選抜として全国大会に出場した。初戦で北海道と対戦し、僅差で敗れた。その翌日、中北は一人で地下鉄銀座線に乗った。向かった先はカナダ大使館。留学の方法を訊くためだった。しかし、「そんなこと言われてもなぁ、留学の制度なんてないし……」と一向にいい返事は返って来ない。すると、そこへ偶然にも当時、日本の企業チームで活躍していたカナダ出身のテリー・オマリーという選手が入ってきた。聞けば、2年後のレークプラシッドオリンピックの代表に42歳というチーム最高齢で選ばれたため、カナダに帰国するという。その日は、別れの挨拶に来ていたのだ。そこで当時のカナダ大使館でビサ審査を担当していた永野氏に親身にいろいろと取り計らってもらい、なんとか留学が決まった。

「いやもう、あまりの急展開に自分でも正直ビックリしました。たった一日でスーパースターと会い、そして自分の人生が決まっちゃったんですから。何よりカナダ大使館の永野様は僕の恩師です。今もお付き合い頂いています」
 翌年、まだあどけなさが残る15歳の少年は親元を離れ、そして単身カナダへと渡って行った。もちろん、目標はNHL(ナショナル・ホッケー・リーグ)の選手になることだった。

 ノートルダム高校があるサスカチュワン州ウィルコックスは人口100人程度(当時)の小さな町だった。冬は平均マイナス25度。寒い時にはマイナス40度にもなる。しかし、アイスホッケーが国技というだけあって、そんな小さな町にもアイスホッケーのリンクは3つあった。
 高校は男子生徒約300人、女子生徒約50人。その中で外国人留学生は中北一人だった。全寮制で2段ベッドが2つ置いてある4人部屋で過ごした。寮から学校まではどこまでも広がる高原の中をバスで通った。サスカチュワン州の第2公用語はフランス語であったため、フランス語も覚えなければならなかった。授業では辞書を片手に四苦八苦する日々だったが、アイスホッケーでは自分よりも体格のいいカナダ人に決して負けはしなかった。

 アイスホッケーのチームは年次別にそれぞれに3A、2A、1Aに分かれている。トップチームの3Aに入ることができれば、学校ではヒーロー的扱いだ。卒業後には大学やプロからスカウトされ、将来的にはNHL入りも夢ではない。中北は常にそのトップチームに入り、本場での技を磨いた。
「トップチームは年間70試合くらいこなすんですよ。もちろん、選手のほとんどが僕よりも体格がいい。農家の息子なんかは身長190センチとかいましたからね。彼がスティックをもったら、それこそリーチが3メートル近くになる。そしたら、僕なんかがいくら頑張ってもパックを取れるわけがないんです。じゃあ、どうするか。もう、スピードしかないと思いました。素早く相手の中にもぐりこむんです。今、アイススレッジの選手たちを指導する時にも、その時の経験がいかされていますね」

 高校卒業後は、米国へと渡り、トップの1部リーグに所属する大学で4年間、勉学とアイスホッケーに勤しんだ。そして卒業を間近に控えた頃、2週間ほどのオフが与えられた。いい機会だと思い、久々に高松の実家に帰省し、のんびりと休暇を楽しんでいた。そんなある日のことだった。突然、中北の身に信じられない出来事が起きた。実家のトイレでしゃがんだ途端、バキッととてつもない音がした。なんと、右ヒザの靭帯が切れたのだ。
「オフが終わったら、アメリカに戻ってトレーニングキャンプをして、NHLのトライアウトを受けようと思っていた頃だったんです……」

 市内の病院で応急処置だけをして、中北はすぐに米国に戻り、手術をした。ここまでの大ケガは人生で初めてのことだった。
「部分麻酔だから、内視鏡で中がどうなっているのかを見せてくれるんです。もう、ヒザの中はグチャグチャ。まるで魚をつぶしたような感じでした。その時にはもう、復帰することは無理だな、と感じていました。当時は最先端のアメリカでもつなぎあわせるのがやっとでしたからね。今のような強固に縫い合わせる材料がなかったので、自然にかぶっていくのを待って、あとはまわりの筋肉をつけていくことで凌ぐしかなかったんです。だから、横の動きに耐えることができない。特にアイスホッケーは止まってぶつかって、止まってぶつかって、という動きが多い。だから、もう無理でした。一応滑ってはみたけど、やっぱりダメ。僕の現役生活は、実家のトイレで終わりを迎えたんです……」

 アイスホッケーに魅了され、プロへの夢を追い続けてきた中北。その夢は叶うことなく、はかなく散った。その後、再びリンクに戻り、世界を目指すことになろうとは、この時の彼は予想だにしなかったであろう。中北の人生はアイスホッケーとは切っても切れない運命にあった。

(第4回へつづく)


中北浩仁(なかきた・こうじん)プロフィール>
1963年、香川県高松市生まれ。アイスホッケーを始めたのは6歳。中学でもアイスホッケー部に所属し、中学3年時には西日本選抜チームに選ばれて全国大会に出場した。卒業後はカナダの高校、米国の大学とアイスホッケーの本場へと留学。有望株として将来を嘱望され、自身もプロを目指した。しかし、大学4年時に右ヒザ靭帯を断裂し、選手生命を断たれた。卒業後は帰国し、日立製作所に就職。2002年よりアイススレッジホッケー日本代表監督を務め、06年トリノ大会では5位、10年バンクーバー大会では銀メダル獲得に導いた。日立製作所では敏腕営業マンとして海外出張も多く、その合間を縫ってアイススレッジホッケーの指導にあたっている。







(斎藤寿子)
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