米独立リーグ、アトランティック・リーグのランカスターでプレーしていた仁志敏久が右太もも痛悪化を理由に現役引退を決意した。

「先々のことを考えれば、最後はアメリカで(野球を)やりたい」
 渡米前、そう語っていただけに、完全燃焼の思いがあるのではないか。
「先々のこと」というからにはいずれは指導者になることも視野に入れているのだろう。
 昨年12月に行ったインタビューから、その一端が窺い知れる。
「1番を打っていた僕が言うのも変ですが、もし僕が一番上(監督)に立ったら2番打者にこだわる野球をやってみたい」
 ――単なるつなぎではなくゲームメーカーという意味?
「そうです。足が速くてダブルプレーが少ない。自然の流れで攻撃がつなげれば見ている方もおもしろいでしょう。新しい野球が創造できるかなって」

 仁志と言えば巨人時代は「ビッグマウス」と呼ばれた。
 大学(早大)、社会人(日本生命)を経由して、いわゆる逆指名で入団したこともあり、自信満々の言動が誤解を招いたこともあった。
「小柄な割にはバッティングが大きすぎる」と批判されたこともある。
 身長171センチ、体重80キロ。この体でNPB通算154本塁打を記録したのだから、単なる巧打者ではなかった。
 守備でも遺憾なく名手ぶりを発揮した。プロ2年目、土井正三コーチ(故人)の助言により、サードからセカンドに転向。打球方向を読むことにかけては、一時期、仁志の右に出る者はいなかった。

 ON対決と称されたホークスとの2000年の日本シリーズでは2連敗後の第3戦、シリーズ史に残るファインプレーでピンチを脱し、ホークスに傾きかけていた流れを変えてみせた。
 俊足の村松有人が放った一、二塁間への強烈な打球に飛びつき、間に合いそうもないファーストに投げる振りをして二塁ランナーに三塁を回らせ、ホームを狙わせた。
 この頭脳プレーに引っかかった二塁ランナー柴原洋は、本塁で憤死。スキあらば、という仁志の姿勢が修羅場で実を結んだのである。

 独立リーグとはいえ米国野球にこだわったのは、野球以外のこと――たとえばフロントの在り方やファンサービスについても知りたかったからではないか。
 仁志を慕う現役選手は少なくない。たとえば2008年のセ・リーグ首位打者、横浜の内川聖一がそうだ。
「プレーひとつひとつの成功した理由、失敗した理由の全てを説明できないと、プレーをしたことにはならないんだよ」
 仁志の教えを、内川は今でも大切に胸にしまっている。
 彼の実績をもってすれば守備、打撃、走塁、いずれのコーチでも務まるだろう。そして、いずれは指揮官となり「2番打者にこだわる野球」を見せてもらいたいものだ。

<この原稿は2010年7月4日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

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