プロ野球は身分社会である。実績のない2軍選手が1軍の監督と口をきく機会なんて、そうそうあるものではない。ならば、年賀状しかない。青木はそう判断したのだ。
「あの時(のチーム)はセンターが固定されず、ライトも稲葉篤紀(現北海道日本ハム)さんがFAで出ていったので、外野のポジションが2つ空いていた。試合に出るには、このチャンスを生かすしかないと思ったんです。
 幸い僕は盗塁もできるし、ファームで首位打者になったことでバッティングにも自信がついた。もう、オレしかいないだろう。そんな思いでした」
 青木の必死のアピールは若松の心にしっかりと届いた。
「こんな選手は初めてだ。よし1年間、青木を使ってみるか」
 若松は決意を固めた。
 その期待に、青木は見事に応えた。セ・リーグ最多(当時)の202安打を放ち、打率3割4分4厘で首位打者も獲得してみせたのである。

 後日談がある。若松は青木からもらった年賀状を今でも大切にしているという。
「この前、若松さんが“オレが年賀状を持ち歩いているのってウソだと思うだろう?”と聞くから“ちょっと信じられませんね”と答えると、“これ、覚えているか?”ってパッと僕の年賀状を取りだしたんです。これにはビックリしました」
 青木は教えてくれる、自己主張は命がけでやるものだと。メールではなく直筆の年賀状で勝負をかけたところに青木の心意気が見てとれる。

<この原稿は「ビッグトゥモロー」2010年8月号に掲載されました>
◎バックナンバーはこちらから