もうだいぶ以前のことのような気がするが、サッカーW杯南アフリカ大会が閉幕して間もない頃、釜本邦茂さん(日本サッカー協会名誉副会長)のこんなインタビュー記事が出ていた。
<岡田監督は、オシムさんから続く「人とボールが動くサッカー」という理想を捨て、守備をかためて数少ないチャンスで得点して勝つサッカーに切り替えた。これは大英断だった。W杯という大会は、勝たなければ意味がない。試合から1週間もたてば、みんな内容なんて忘れている。>(「朝日新聞」7月2日付「W杯を語ろう」)
 今回の日本代表は大成功だった、と祝賀ムードが街にあふれていた頃である。確かにグループリーグは突破したけれども、そんなに素晴らしく強いチームだったかなあ。個人的には、社会全体を覆うムードに、どことなく居心地の悪い思いをしていた。釜本さんの記事は、わだかまっていたモヤモヤをいっぺんに吹き飛ばしてくれた。なるほど。そういうことなのか。
 祝賀ムードの根底には、この釜本さんの心性があるに違いない、と気づいて腑に落ちたのである。どういうことか。
 前日本代表のオシム監督は、サッカーに美を求めた。例えば、こんなふうに語っている。
<(サッカーは)最も美しい生物である人間の活動として、美しい芸術の1つなのだと思う。>(「日刊スポーツ」7月13日付)
 もちろん、ここで「美しい芸術」として念頭に置いているのは「人とボールが動くサッカー」だ。それは多分、釜本さんに限らず、多くの日本人にとっても「理想」なのだ。だが、現実には、それを捨てることで、グループリーグ2勝1敗という果実を得た。岡田武史監督、オシム監督なんかよりよっぽど立派じゃないか。

 ここから先は、想像である。邪推と言っていただいても構わない。モヤモヤが吹っ飛んだのは、そうか、早い話が日本人はオシム監督が嫌いだったんだ、と気づいたからである。というと、すかさず反論が出るだろう。それではなぜ、いわゆる「オシム本」はよく売れたのか。
 船曳建夫さんは『「日本人論」再考』(講談社学術文庫)の中で、こんなふうに述べておられる。わが国ではなぜ、「日本人論」が数多く出版され、しかも読まれるのか。
<「日本人論」とは、近代の中に生きる日本人のアイデンティティの不安を、日本人とは何かを説明することで取り除こうとする性格を持つ。>
 日本人は、近代を生み出した西洋という地域的歴史には属していない。その意味で「特殊な」存在であることに、アイデンティティの不安を抱えており、日本人論を読むことで、その不安を解消しようとする。しかし、この不安は根元的なものなので、「常に新たな“不安”が生まれ、そのつど新たな“日本人論”がベストセラーとなる」――というようなことであるらしい。

 言われてみれば、サッカーはその「不安」を生む好例といっていいだろう。なにしろ、西欧近代に根ざした歴史と伝統を持つスポーツなのだから。そのうえ、オシムさんはまさにその西欧の知の結晶のような人物である。彼の発する西欧発想の言葉がなぜ受けたのか。おそらく、言葉どおりにすべてを受け入れたのではないのだ。多くの日本人は、その言葉で自らとサッカーの本場西欧との距離を測り、自分のよりどころを確認して、船曳さんの言うところの「不安」を解消したのである。そのために、オシム監督の言説は有効だったのだ。
 しかし、今回のW杯の結果を成功と評価することによって、状況はかわった。極端に言えば、もはやオシム的なものはいらない、と切り捨てたのではないか。釜本さんの言葉は、そのことを端的に語っているのではないか。

 とすると、もうひとこと言いたくなる。オシムという人物は、その外見からして、あるいは発する言葉からして、まるで厳格な父親のようではないか。彼の言説は、自分たち日本人の外にある権威としての「父」の言葉だったのではないか。
 とすれば、それを捨てたというのは、今回、日本人はある種の「父殺し」を行なったのではないか。もちろん、フロイトが唱えたあのエディプスコンプレックスの、知らずに父王を殺してしまったというオイディプスのギリシア悲劇に発する「父殺し」である。これ以上は私の説明ではそれこそ不安なので、小林敏明さんの好著『父と子の思想』(ちくま新書)から引用させていただく。「父殺し」の意味とは、どのようなものか。
<だから理論上は、子供はこの法や規範のモデルとしての厳父を内面化したとき、その「父殺し」が完成し、そのことを通して「大人」への脱皮が図られるということになる。>
 問題は、オシム監督から岡田監督へという交代劇が、はたして子どもから大人への脱皮と評価できるのか、にあるだろう。ここで告白しておけば、私は「街のオシム派」である。結果ではなく、過程にこそ、あらゆるスポーツに美は宿ると考える。つまり、岡田監督によって「厳父」が「内面化」できたとは考えられないタイプなのである。まあ、そんな少数者にも、ゆっくり呼吸する場所を与えてくれる日本社会であってほしいと願っておりますが……。

 えんえんと書いてきたのは、ではこの視点を現在の日本のプロ野球の監督にあてはめるとどうなるだろう、と思ったからである。
 誰が「父親」なのだろう。
 去年までなら、おそらく真っ先に「野村克也」の名があがっただろう。
 でも、それは違うのではないか。野村さんの人気の理由は、例えば、あのボヤキの面白さにある。あれはむしろ、球団の体制とか日本社会のシステムとか、そういう「父」的な「権威」にけたぐりをかます言葉である。それで聞く者は溜飲を下げる。もちろん、選手に対しては、絶対君主なみの存在なのだろうと思いますが、本質的には、厳父ではない。

 例えば、巨人の原辰徳監督。WBCも制覇し、今や名監督の呼び声も高い。もしかしたら、「父親」的なのかもしれない。しかし、彼には「若大将」というニックネームがついてまわっている。「若大将」とは、いわば選手のアニキ分的存在であって、父ではない、ということだ。
 ここは微妙かもしれない。
 例えば、8月4日の巨人−阪神戦。首位攻防の3連戦の第2戦だったが、巨人は先発・内海哲也が5回5失点の乱調で、4−8と敗れた。試合後、原監督は内海について、こう発言している。
「激励? 何も言わないよ。これまで100万回ぐらい言ってきたから。もうお尻をペンペンする時期は終わった。あとは結果を評価するだけ」(「日刊スポーツ」8月5日付け)

 これは面白い言葉である。
 まず、「お尻をペンペンする」のは、あきらかに父的監督である。しかし、「結果を評価するだけ」というのは、父子関係を廃棄している。いわば、ビジネス関係に移行したことを宣言している。
 もしかしたら、ここに原監督の名将としての資質、あるいは可能性が表れているのではないだろうか。
 つまり、内海はまだ「厳父」を内面化し、「父殺し」を行うほど大人になっていない。それを、監督の側から「父」を抹消して、大人にしようとしているのだ。
 あるいは、こうも言えるだろう。
「父」としての監督を否定しようとする選手は数多くいるに違いない。なぜなら、選手もまたプロなのだから。そのとき、監督が否定された「父」的側面以外の残余をもっているか否か。すなわち、プロ対プロの側面をもっているかどうか。原監督の言葉は、あきらかにその側面も十分持ち合わせていることを暗示している。

 外見から推量すると、例えば北海道日本ハムの梨田昌孝監督はどうか。かつての二枚目は、穏やかな笑みをたたえて、立派なお父さん然としているではないか。
 ただねえ。この方の采配を見ていると、何か、ビジョンのようなものが感じられないのですよ。監督として「厳父」であるとは、少なくとも、チームの将来にわたる構想力をそなえていることが条件になるだろう。その点が、ちょっと……。
 余談だが、中田翔(日本ハム)はついに花開きそうだ。これまでよりも、グイッと両ヒザを曲げて重心を低くして構えるようになって、目に見えて結果が出始めた。この新フォームが、当たりなのかもしれない。

 例えば埼玉西武の渡辺久信監督は、おそらく、父というよりアニキですね。オリックスの岡田彰布監督も阪神時代は兄貴分っぽかったが、オリックス監督に就任してちょっと父的になったかもしれない。
 おそらく、現在の日本野球で、子ども(=選手)が「殺す」(=否定する)に足るだけの確たる権威を、もっともしっかり備えているのは、中日の落合博満監督であろう。中日の選手は、誰がどこまで「父殺し」に成功しているか、その度合いによって、チーム力が決まるのではないだろうか。

 典型的な「父殺し」をやったのが、広島カープと千葉ロッテである。それぞれ、ブラウン、バレンタインという去年までの外国人監督は、確固としたチーム作りの方針をかかげ、その理念にしたがって采配をふるう「父」的監督であった。
 おそらく、広島も千葉も、それに辟易したのである。分からず屋のオヤジはいらない、とばかりにクビにした。ところが、このクビにする過程に、「父」的なものを自分たちに内面化させ、その上で脱皮するという作業をおこなわなかった。そこが、問題だったのだろう。
 広島の場合は、そこにアニキ分的な野村謙二郎監督をすえた。大人への脱皮をしないままアニキに移っては、なかなか結果は出ない。
 ロッテの西村徳文監督は、野村監督よりは、少しは父親的な側面があるのかもしれない。でも、やはり、どこかアニキ分的にふるまっておられる印象はありますね。
 ともあれ、「街のオシム派」としては、監督もまた、進化し続けてほしいものである。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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