南アフリカにチームドクターとして帯同することが決まったのは今年の2月。しかし、W杯に向けた準備はそのずっと前から始まっていた。「チームドクターって、23人の代表メンバーが全員、いつでも試合に出られるようにコンディションを整えるのが大前提なんです。だからキックオフの前に仕事の大部分は終わっている。試合が始まってしまえば、こちらができることはケガ人の対応とか限られていますからね」
(写真:今回のW杯に参加した選手、スタッフに授与された記念のメダル)
 準備は最悪のケースを想定

 大会前、森たちドクターが最も腐心したのが、感染症対策だった。A型肝炎、B型肝炎、ポリオ、麻疹、インフルエンザ、破傷風……。何と言っても南アフリカは、多くの選手、スタッフたちにとって未経験の場所。何が起きるか想像がつかなかった。
「予防接種は3種類を1度に打てるのですが、1回打ったら3週間は空けなくてはいけない。またA型肝炎のワクチンなどは、3回打つと5年ほど効果が持つので、複数回打っておきたい。だから、アジア地区3次予選の頃から、代表に呼ばれた選手には予防接種を始めました」

 もちろんワクチンを打った選手が、そのまま代表としてW杯に行けるとは限らない。逆に予防接種を受けていない選手が、代表に選ばれることも考えられる。だが、23名の代表メンバーが正式決定してから、本番までは約1カ月。それから対応していたのでは間に合わない。森たちは代表入りの可能性のある選手たちの接種状況をすべて把握し、必要であれば所属クラブに連絡をとってワクチン接種の指示を出した。

 それでも、もし誰かが病気になってしまった場合はどう対応すべきか。感染症が一気にチーム内に蔓延してしまえば、試合どころの話ではない。薬の確保に始まり、医療サポート体制の構築、選手の隔離方法や食事の摂らせ方のマニュアル作成……。最悪のケースを想定した準備が着々と進められた。
「万が一、誰かがインフルエンザにかかってしまったら、全員にタミフルを飲ませる必要が出てきます。南アフリカで最も手に入りづらいと思っていたのが抗生物質。だから、どの薬をどのくらい持っていくかに関しては、とても気を使いました」

 合宿中やケガや病気をした際に、どこでどう受診するかを考えるのも森たちの仕事だった。土日でも現地の病院は対応してくれるのか。夜間はどうか。移動日に病人やケガ人が出た時は連れていくのか、その場に残すのか。残した場合は、誰とどのように引き継ぐのか。代表のスケジュールと照らし合わせながら、ありとあらゆるシミュレーションをし、可能な限りの手は打った。

 役立ったコンディションニングシート

 もうひとつのポイントは高地対策だった。今回のW杯、グループリーグの初戦(対カメルーン)の会場は標高約1400メートル。3戦目のデンマーク戦は約1500メートルの場所で試合をすることが決まっていた。当然のことながら、国内ではこんな標高の高いところでサッカーをすることはまずない。そこであらかじめ高地に順応するため、スイス・ザースフェーで直前合宿が組まれた。空気が薄い環境下では、運動中に息切れしやすいだけでなく、酸素不足で頭が痛くなったり、眠れなくなったりする場合もある。適応力には個人差があるため、まずは各選手の状態を正確につかんでおくことが重要だった。

 具体的に高地との戦いがスタートしたのは今年の年明けから。高地トレーニングの専門家、三重大の杉田正明准教授が中心となって準備が進められた。まず、代表入りしそうなメンバー全員に低酸素下での心肺機能テストを実施し、傾向と対策を練った。さらに代表が確定した時点で酸素濃度を低くする低酸素マスクを予備登録メンバーも含めた全選手に配布。一定時間、着用して酸素の薄い環境に慣れるよう指示を出した。

 代表合宿がスタートすると、尿検査や脈拍計測を実施し、各選手のコンディションを随時、チェックした。加えて、コンディションニングシートを配布し、「疲れはないか」「夜はよく眠れているか」「喉の痛みはないか」「便秘や下痢の症状はないか」といった項目を訊ねた。それらの結果はチーフトレーナーを通じて、岡田武史監督にも概要が報告され、練習量やメニューを決める際の参考となった。

 実はこのコンディショニングシートを使った選手の体調管理は、高地対策が始まる前から既に導入されていたシステムだ。代表の試合が行われる2日前に必ず選手にコンディションシートを記入させ、状態を把握する。そのメリットを森は次のように語る。
「検査結果も大事ですが、何より自覚症状があるかどうかがポイントなんです。体のどこかに不安があれば、思いきったプレーはできませんからね。定期的に調べていると選手の体調の変化もすぐに分かる。たとえば、“眠れない”と申告した選手がいても、いつも試合前になると眠れないのであれば大きな問題はありません。ところが、いつもはそんなことを書かない選手が眠れないのであれば、呼び出して体調を確認しなくてはいけないでしょう。こういったコンディションの管理法を、この4年間で確立できたことは大きかったと思います」

 結果、いざ本番を迎えても日本代表の23選手は、体調を大きく崩すことなく試合に臨めた。グループリーグから決勝トーナメントまで全4試合のスタメンは不動だった。しかも、グループリーグでの総走行距離は331.45キロで32チーム2位。同じメンバーで戦いながら、豊富な運動量をキープできたのは、各選手のコンディションが良好だったからに他ならない。

 戦術の変更、チームに生まれた一体感、いち早い公式球「ジャブラニ」への適応……。日本が戦前の予想を覆してベスト16入りした要因には、さまざまな指摘がある。しかし、いくらフォーションを4−1−4−1に変えたところで、いくらチームが一丸となって戦ったところで、肝心の選手たちが万全の態勢でなければ何も起きえなかったはずだ。
 
 その意味では、病気やケガのリスクを極力排除し、選手の状態をピークに持ってきたスタッフたちの“準備力”こそが、躍進の最大の要因ではなかったか。
「まぁ、でも、それが仕事ですからね」
 森はサラリとそう答えた。サッカーのトッププロを支えた人間もまた、紛れもないプロフェッショナルだった。

(第3回へつづく)
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森孝久(もり・たかひさ)プロフィール>
1963年7月16日、愛媛県生まれ。松山東高時代にサッカーで右大腿直筋を断裂したことをきっかけに整形外科医を志す。愛媛大学医学部に入学し、同附属病院で91年に医師生活をスタート。93年から愛媛FCユースのチームドクターとしてサッカーに携わる。01年には愛媛FCトップチームのドクターに就任し、翌年にはユニバーシアード日本代表のチームドクターに。02年日韓W杯では横浜国際総合競技場にてスタジアムの医務を担当する。06年10月より日本代表のドクターに抜擢され、イビチャ・オシム、岡田武史両監督の下で代表チームをサポートした。07年9月には松山市に整形外科つばさクリニックを開院。院長を務める。
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(石田洋之)
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