北原郷大が「ギランバレー症候群」と診断されたのは、2008年1月のことだった。前年、1年生ながらリーグ戦で登板し、秋には1勝を挙げるなど結果を残していた北原。それだけに、周囲はもちろんのこと、彼自身も今後の活躍を期待していたことは想像に難くない。病魔に襲われたのはそんな矢先のことだった。
「健康児そのもの」と父親が語るように、北原は幼少の頃から風邪ひとつひかない丈夫な体が自慢だった。学校を休んだ記憶は本人にも父親にもないほど、いつも元気いっぱい走り回っていた。そんな北原が体調を崩したのは大学に入学して1年目の冬のことだ。39度もの高熱を出し、嘔吐と下痢が続いた。すぐに病院に行き、処方された薬を飲んで休養していると、嘔吐と下痢は2、3日で治った。ところが、熱だけは全く下がらない。それどころか、日に日に体の痛みが激しくなり、トイレに行くことさえも必死の状態だった。

「熱が下がらないので、最初はインフルエンザかなと思っていたんです。でも、病院に行っても、全くよくならないうえに、徐々に体に激痛が走るようになって、動くこともままならなくなった。それで、もう一度病院に行ってみたら、その日から入院することになったんです」
 しかし、この時医師はまだ「ギランバレー症候群」とは診断していなかった。

 その後、2日間ほど検査をしたが、原因は不明のまま。そこで神経内科のある病院に移り、さらに詳しい検査をすることとなった。その知らせを聞いた父親は、翌日、東京に向かった。
「検査の当日、朝一番の飛行機で妻と一緒に徳島から東京に向かいました。病院に着くと、まだ検査前の郷大が寝ていて、その姿を見た時には“治らんかもしれん。もしかしたら、立つこともできないのではないか”と心配になりました。何せ、体に触れただけで激痛が走るというんですから……。『ギランバレー症候群』と診断されたのは、その日の夜でした。それまで耳にしたことのなかった病名でしたからね。とにかくビックリしました」

 翌日からすぐに治療を切り換えた。付添い人が必要のため、静岡から一番上の兄が駆けつけて来てくれた。大学卒業が決定し、あとは教職採用試験のみとなっていたため、病室で勉強を続けながら、ずっと付き添ってくれたのだという。1週間ほど点滴治療を受けると、熱は下がり、徐々に体の痛みも和らいでいった。1カ月後、退院した北原はどうにか歩けるようにまで回復していた。

 退院後は生田監督の配慮によって、徳島の実家で療養することとなった。この時はまだ、野球を再開するには程遠く、まずは私生活を送れるようにすることが優先だった。はじめのうちは痛みがとれておらず、両親に寝返りをうってもらわなければならない状態だった。しかし、徐々に体が動くようになると、家の周りを散歩したりして衰えた筋肉を鍛えた。
「そのうち、急激に体はよくなっていきました。ただ、頭痛だけは続いたんです。でも、医師からは『1カ月以上も寝たきりの状態が続いたため』と言われていたので、ならば支障はないなと思って、その内に走ったり、腹筋、背筋をしたりしてトレーニングをし始めました」

 実は、北原は左手に後遺症が残る可能性も示唆されていた。しかし、彼は決して野球を諦めてはいなかった。支えとなっていたのは、部員からの激励だった。
「入院中、野球部から色紙と、部員全員が一人ひとり書いてくれた手紙をもらったんです。それを読んだら、『早く戻らなくちゃいけないな』という気持ちになりました。たとえ、後遺症が残って野球ができなくなっても、マネジャーか何かで野球部には残ろうという気持ちでいたんです」

 父親もまた、亜細亜大野球部には大きな感謝の念を抱いていた。
「こちらが驚いてしまうくらい、生田勉監督をはじめ、コーチ、部員たちが郷大のことを応援してくれたんです。今でも本当に感謝しています。郷大も自分がプレーできなくなっても、野球部に残ろうと思っていたということは、アイツもちゃんとわかっていたんですね」

 退院時、平均40キロ半ばあるところ、10キロほどしかなかった左手の握力も、その頃にはグローブで捕球する程度には戻っていた。
「よし、これなら大丈夫」
 北原は新学期を迎える直前、春の訪れとともに亜細亜大学野球部へと戻っていった。そして、そこから周囲の誰もが驚く奇跡の復活劇がスタートしたのである。

(第4回につづく)

北原郷大(きたはら・あきひろ)プロフィール>
1988年6月9日、徳島県美馬郡つるぎ町(旧半田町)出身。小学1年から野球を始め、中学から投手一本。穴吹高では2年夏からエースとして活躍。甲子園の夢は果たせなかったが、素質の高さを評価され、同校出身者としては初めて東都大学リーグ1部に所属する亜細亜大学野球部に入った。1年春からベンチ入りし、リリーフ投手として登板。1年時のオフに「ギランバレー症候群」を発症し、2カ月間の療養生活を余儀なくされるも、2年春に復帰。同年秋には初先発で初勝利・初完封を成し遂げるなど、2勝を挙げた。3年春には自己最速となる151キロをマークした。178センチ、76キロ。右投右打。








(斎藤寿子)
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