フジタ工業加入の経緯 ~ホルヘ・ヒラノVol.7~

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 ホルヘ・ヒラノの記憶によると、フジタ工業サッカークラブのテスト――セレクションが行われたのは、1980年1月だった。

 

 

 前年の79年シーズン、フジタ工業は2年ぶりに日本サッカーリーグ1部及び天皇杯を制していた。チャンピオンチームである——。ただし、このシーズンを最後に主力選手である、ブラジル人のマリーニョが引退していた。彼に代わる選手を探していたのだ。

 

 フジタ工業サッカークラブの前身は68年設立の藤和不動産サッカー部である。

 

 藤和不動産社長だった藤田正明は欧州や南米型のサッカークラブを目指して那須高原の藤和那須リゾート内に施設を建設した。当時としては珍しく芝生のグラウンドで、サッカーのコートが3面取れるほどの広さだった。同時にコーチ兼選手として、東洋工業蹴球部(現・サンフレッチェ広島)の石井義信を招聘している。1939年生まれの石井は65年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)で東洋工業の主力として67年まで3連覇に貢献した。社長の藤田は「10年で日本一となる」と発破をかけた。

 

 藤和不動産は栃木県4部リーグから始め、72年に日本リーグに昇格した。75年シーズン後期から、親会社であるフジタ工業の管轄となり本拠地が東京都渋谷区に移った。フジタ工業サッカー部として、77年に天皇杯初優勝、JSL1部初優勝を達成している。藤田の望み通りの結果を残したのだ。

 

「フジタのセレクションがあると父親が耳にした。リマの日系人協会が協力していたんだと思う。フジタは日系二世の若い選手を日本に連れて行きたいと考えていた」

 

 即答した日本行き

 

 79年シーズンまでゴールキーパーで、翌年からコーチに就任した栗本直によると、ペルー人選手を獲ることになったのは、フジタの代理店がペルーにあったからだったという。

 

 ヒラノはこう振り返る。

「若手の日系人で2つのチームを作って、紅白戦をやった。ぼくは幾つかゴールを決めたと思う。ぼくのスピード、良く走ることを気に入ったんでしょう、試合後、日本人の監督だったかコーチがぼくを呼んで、日本に行きたいかと聞いてきた」

 

 ペルーリーグ1部の『フベントゥ・ラ・パルマ』との契約は79年シーズンまで。監督は自分の能力を軽んじていると感じていた。契約延長を提示されても受けるつもりはなかった。

 

「すぐに行くって答えたんです。ただ、ぼくはサッカー選手としてのプロ契約ではなかった。一般の会社員としての雇用契約。ちゃんとお金が払われることは魅力的だった」

 

 ペルーに限らず、南米大陸のサッカークラブは給料の遅延、未払いが多い。フジタ工業という日本の大企業はその点で安心だった。

 

 セレクションで合格したのは、ヒラノ一人だった。

 

 日本への出発は80年4月となった。

 

 リマの空港でヒラノはエミリオ・ムラカミと合流した。ムラカミは57年生まれで、ヒラノよりも2つ年上にあたる。日系三世で、祖母はイタリア系ペルー人である。

 

「エミリオはすでに名前の知られていた選手でセレクションとは別に加入が決まっていた。それまで彼とは面識がなくて、空港で初めて会った。リマからアラスカを経由して成田に着いたんじゃないかな。ずいぶん前の話だからはっきりは覚えていない」

 

セレクションで入団が決まったヒラノ<右>と別ルートで加入が決まっていたムラカミ。写真提供:ホルヘ・ヒラノ氏

 

 東京に着くと見るもの全てに圧倒された。チャクラ(農園)から大都会に来たんだから、びっくりすることだらけだったねと笑う。

 

 日本サッカーの印象

 

 フジタ工業の寮は川崎市多摩区の登戸にあった。毎朝スーツ、ネクタイを締めて小田急線に乗り、代々木駅近くのフジタ工業の本社に向かった。

 

「電車はすごく混んでいてね。人に押されているうちに、鞄がどっかに行ってしまうんだ。八時ぐらいに会社に行き、入り口で(出社の)判子を押した。でも、会社にいてもやることはなかった。事務の女性から、(昼の)12時になったら(退社の)判子押してねって言われていた。社員食堂で昼ご飯を食べてから、平塚のグラウンドに向かう。小田急で本厚木(駅)まで行って、そこからバス」

 

 80年シーズン、日本リーグ1部の開幕戦の相手は4月20日、古河電工サッカー部だった。フジタ工業の中心となるのはリベロに入っていた古前田充、前線には得点王の経験もあるブラジル人のカルバリオがいた。ヒラノとムラカミは登録の関係で10月のリーグ後半まで試合出場できなかった。

 

 なぜ出場できなかったのは、ぼくは知らない、とにかく毎日きつい練習だけやらされたという記憶があるとヒラノは首を振る。

 

 専門誌『サッカーマガジン』の取材で日本サッカーの第一印象を聞かれ、こう語っている。

<やたらに体力づくのサッカーで、当たりがきびしいだけ。おもしろくない>

 

 巧みな足技を持った選手たちが小気味よいリズムでパスを回す南米大陸のサッカーと、

当時の日本のサッカーは全く違っていたのだ。 

 

(つづく)

 

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。最新刊は、「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」(カンゼン)

代表を務める(株)カニジルは、鳥取大学医学部附属病院一階でカニジルブックストアを運営。とりだい病院広報誌「カニジル」、千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学附属病院がんセンター広報誌「梅☆」編集長。

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