祖父母のルーツを探る旅 ~ホルヘ・ヒラノVol.8~

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 ホルヘ・ヒラノの日本リーグデビュー戦となったのは、1980年10月4日、リーグ第14節の日立戦だった。80年シーズンは5試合を残して、フジタは首位を走るヤンマーディーゼルを追いかけていた。ヒラノは右ウイングで出場したが、1対3で敗戦している。

 

 直後の『サッカーマガジン』はこう報じた。

 

<前期も負けている相手だけに是が非でも勝ちたい試合だっただけに、試合後は全員がガックリと肩を落としていた。その暗い雰囲気の中でただ一つ明るい話題は、新外人のホルヘ平野が持ち前のスピードとテクニックを発揮してくれたこと。「これから先が楽しみ」と首脳陣を喜ばせていた>

 

 続く第15節、札幌で行われた三菱重工戦には、もう一人のペルー人選手であるエミリオ・ムラカミが左ウイングとして初出場している。この試合はスイーパーに入っていた古前田充の得点で1対0の勝利。

 

 続く、第16節でヤンマーディーゼルが5年ぶり4度目の優勝を決めた。最終節でフジタはそのヤンマーディーゼルと1対1で引き分け、古河電工、三菱重工を振り切り、2位に入っている。

 

 この直後、若手選手を中心とした『ヤングフットボールリーグ』(YFL)が行われている。フジタは当初出おくれたものの、最後のヤマハ発動機、法政大学、日本鋼管の3連勝により、3位に入った。ヒラノ、ムラカミはそれぞれ得点王、アシスト王となっている。

 

 ヒラノのスピードと足技、決定力は日本リーグ内でも際立っていた。

 

 天皇杯2回戦のJSL2部の住友金属戦でヒラノは3得点、8対0の勝利に貢献している。準々決勝で三菱重工に1対2で敗れ、この年のシーズンは終了した。敗れたものの三菱重工戦でもヒラノは1得点を挙げている。上々の滑り出しといっていい。

 

 日本での生活にもすんなりと馴染んだ。

 

「読売クラブのラモス、カルロス・ニコトラたちと六本木に良く出かけた。(ブラジル人の)彼らとは適当なポルトガル語とスペイン語で話をしていたんだ」

 

 ラモスはブラジル人らしく夜遊びが好きだったと笑う。

 

 ラモスとは、後に日本人に帰化して日本代表となるラモス瑠偉だ。

 

 この国に長くいてもいいかな……

 

 かつて故郷が恋しくなったラモスたちはフジタのブラジル人選手であるカルバリオ、マリーニョに六本木で遊ぶことを教えられた。再開発前の六本木は日本に滞在する外国人たちが集まる隠れ家のような場所だった。外国人、感度の高い日本人たちが集まり、独特の雰囲気となっていた。そうした無国籍な空気はヒラノたち南米の人間には肌が合った。今度はフジタのヒラノが読売クラブのラモスに助けられたことになる。

 

代々木の町を歩くホルヘ・ヒラノ氏<左>。写真提供:本人

 ラモスは東京に住んでいたせいか、日本語を覚えるのが早かった、ぼくの住んでいた(川崎市)登戸は、今と違って何もなくてねとヒラノは苦笑いする。

「会社から(通勤)定期を支給されていた。登戸から会社のある代々木、そこから練習場のある本厚木の間ならば、どこで降りてもいい。それで色んなところに出かけた」

 

 関東近郊だけでなく、自らのルーツを探る旅にも出た。

 

 ヒラノの祖父である平野佐次郎の生まれ故郷である熊本県玉名郡天水町(現・玉名市天水町)を訪れたのだ。

 

 玉名郡は熊本県の西北部、有明湾に面している。天水町はその中でも内陸部に位置する。水と山という自然に恵まれた静かな農村である。尾田川の水源である尾田の丸池の水は名水として知られている。

 

「祖母が日本の親戚とも手紙のやりとりをしていた。だから、ペルーに住んでいるぼくの親戚の名前をみんな知っていた。ぼくのことは、ホルヘではなく日本名の清文(きよふみ)と呼ぶんだ」

 

 日系人はペルーに限らず、ブラジルでも現地名と日本名を持っている場合が多い。ヒラノの場合はホルヘと清文である。

 

「ものすごい綺麗なところだった。段々畑があって、沢山のミカンが植えられていた。二日間滞在したのかな。毎日、ビールと美味しい物が出てきた」

 

 天水町は古くからミカンの産地であった。隣接する河内地区を合わせると、県内の半数以上のミカンを生産している。

 

「祖父と祖母の実家が真向かいにあった。親戚でないけど、両方、平野という苗字だった。残念ながらぼくは日本語をそれほど話すことはできなかった。話していることはほとんど理解できなかった。それでもぼくが必死で日本語を話すと、微笑んで優しく迎えてくれた」

 

 そのとき初めて食べたのが、馬刺しだったんだとおかしそうに言った。ペルーで馬を食べることはないからねと付け加えた。

 

 日本のサッカー、生活にも馴染んでいた。祖父母のルーツがあるこの国に長くいてもいいかなと思うこともあった。しかし、そうはいかない事情が一つだけあった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。最新刊は、「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」(カンゼン)

代表を務める(株)カニジルは、鳥取大学医学部附属病院一階でカニジルブックストアを運営。とりだい病院広報誌「カニジル」、千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学附属病院がんセンター広報誌「梅☆」編集長。

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