第1166回 西本幸雄から始まった“和歌山の悲運”断ち切るのは…

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 大毎、阪急、近鉄で監督として8回もパ・リーグを制しながら、日本シリーズでセ・リーグ王者に全て敗れた西本幸雄は“悲運の名将”と呼ばれる。

 

 特に川上哲治率いる巨人に対しては1967、68、69、71、72年と5回対戦し、もちろん全敗。V9巨人の引き立て役に甘んじた。

 

「今年こそは」と西本が意気込んだのが、4回目の対戦となった71年のシリーズ。阪急には若きエースが育っていた。入団3年目の山田久志。この年22勝、防御率2.37。巨人にとっては未知のサブマリンだ。

 

 1勝1敗での第3戦。先発した山田は8回まで巨人打線を2安打無失点に封じ、1対0で9回裏を迎えた。2死一、三塁で4番・王貞治。快音を発した打球が後楽園のライトスタンドに突き刺さった瞬間、山田はKOされたボクサーのように深々と両ひざを折った。「ほら、倒されたボクサーが“意識が飛ぶ”っていうでしょう。あれですよ。腰が抜け、全く体に力が入らなかった」。後年、山田はそう語った。

 

 名勝負には必ず伏線がある。土壇場で試合の流れを変えたのは、2死一塁で放った3番・長嶋茂雄のショート方向へのゴロだった。西本からはショート阪本敏三の定位置のように見えたが、阪本は三塁側に動いており、打球は山田の右足の近くを抜けていった。

 

 これが天才の天才たる所以である。タイミングを崩されながらも、バットのヘッドでスピンをかけ、内野手の逆を突く。今のように交流戦のない時代、阪本は長嶋の特技を知らなかったのだ。結局、このシリーズも1勝4敗で西本阪急は川上巨人の軍門に下った。

 

 生前、西本に「悲運の正体」について訊ねたことがある。「ONらスター揃いのチームに、僕が手塩にかけて育てた叩き上げの選手が戦いを挑んでいると思うと、もうそれだけで涙が出そうになる。本当は(監督は)それじゃいかんのやろうけど……」。既に老境に入っていた西本の柔和な眼差しが忘れられない。

 

 西本は1879年開校の旧制和歌山中学(現・桐蔭)の出身である。甲子園は春優勝1回、準優勝1回。夏は優勝2回、準優勝3回を誇る名門中の名門だ。「巨人に負けると和中のOBがうるさいんだ。また熊工(熊本工出身の川上)に負けたって」。苦笑を浮かべて、そんなことも言っていた。

 

 野球どころの和歌山は、過去に多くの名選手を輩出している。プロ野球の監督も、現役の小久保裕紀、吉井理人を含めて8人。来季は西口文也が埼玉西武の指揮を執ると見られている。

 

 しかし、日本一になった監督は、まだ1人もいない。西本は8回、東尾修は2回、大舞台で涙を飲んだ。目下、シリーズ10連敗。泉下で西本もこのジンクスを憂いているのではないか。自分が蒔いた種だと……。悲運の系譜を断ち切るのは星林出身の小久保か、箕島出身の吉井にもチャンスはある。

 

<この原稿は24年10月2日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>

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