バントの名人・川相昌弘が8年ぶりに巨人に戻ってきた。2軍監督としての復帰である。
 実は川相、昨シーズンも中日で2軍監督を務めていた。昨年9月、球団から呼び出され、「来季は契約を結ばない」と告げられた。

「確かウエスタンリーグの全日程が終了した、その次の日でした。1軍はセ・リーグの優勝がかかっていた。2軍も宮崎でのフェニックスリーグの予定とかを立てないといけないので、球団と相談しようと思ったら、それ(解任通告)だったんです」
 寝耳に水の話だったというわけだ。
「来年もやるつもりだったから残念でした。2軍の成績自体は良くなかったけど、選手は伸びてきていましたからね。もう少しやりたかったというのが本音ですね」
 捨てる神あれば拾う神あり。
 退団情報を聞きつけて、すぐに巨人のフロントから連絡が入った。
「中日を辞めたからといって遊んでいるわけにはいかない。仕事は続けなければならないわけで、ちょうど巨人が声をかけてくれた。いいタイミングでした」

 8年前、本当は原辰徳監督の下で働く予定だった。原からは直々に「1軍の守備走塁コーチと3塁ベースコーチをやってくれ」と頼まれた。悩みに悩んだ末に川相は現役引退を決意する。
「現役を続けたい気持ちもあったんですが、重要なポジションを任せてくれるというので、責任を感じて引き受けることにしたんです」
 ところが――。直後に原は当時の球団代表との確執が原因で辞任するのである。
「いやぁ、皆ショックを受けていましたよ。でも、一番複雑な心境だったのは僕です(笑)。監督が代わった以上、自分は今後どうなるのか。先の予定が立たないから早く状況を知りたい。しかし何も連絡がない。やっと辞任会見から1週間後に球団から連絡がありました。その間が長かった。最低でも“すぐには決まらないからもう少し待ってくれ”という電話が欲しかった」
 フロントからの連絡はあったが、提示されたポストは「2軍コーチ」だった。プライドが傷つけられたのは言うまでもない。

 立場が宙に浮いた川相に目をつけたのが、中日の監督に就任したばかりの落合博満だった。落合は川相と巨人で3年間プレーしており、誰よりもその技術と頭脳を評価していた。
 現役3年、指導者として4年。川相は中日の1度の日本一と3度のリーグ優勝に貢献した。「将来は球団の幹部候補」。親会社の人間から、そんな話を聞いたこともある。
 しかし、人生はあざなえる縄のごとし。もう2度と着られないと思っていた巨人のユニホームに再び袖を通し、若手を育てることで打倒・落合中日を誓う。

「巨人へのわだかまり? あぁ、もうそれは全くないですね。巨人には感謝の気持ちでいっぱいですよ」
 積み重ねてきた犠牲バントの数。実に533。内野手としてゴールデングラブ賞受賞6回。後輩たちに伝えたい技術は山のようにある。

<この原稿は2011年2月27日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

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