第1168回 盗塁失敗しても揺るがない 大谷は「聖戦」の象徴

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 野球における盗塁は70~80%の確率で成功しないと、チームにとってはマイナスだと言われている。仮に盗塁の「損益分岐点」なるものがあるとすれば、少なくとも70%は超えていなければならない。

 

「失敗した場合の損失は成功した場合の利益を上回る」。この持論で数ある攻撃の戦法の中から盗塁を除外しようとしたのが、アスレチックスGM時代のビリー・ビーンだ。

 

 2000年代前半、ビーンはセイバーメトリクスに基づいた戦法や戦術を監督に求め、ヤンキースのおよそ3分の1の低予算ながら黄金期を築き上げた。

 

 01年は102勝60敗、02年は103勝59敗と、2年連続で100勝を超えた。だが盗塁は、30球団ワーストの46個(02年)。内野守備コーチのロン・ワシントン(当時)によれば「(02年に)アート・ハウ監督がゴーサインを出したのは、たったの7回」。ビーンの言いつけを守った結果が、それだった。

 

 勝負事は結果が全てである。アスレチックスの野球は「面白くない」「躍動感がない」と陰口を叩かれながらも、「ならば(低予算のチームを)強くする方法が他にあるのか」とビーンは動じなかった。

 

 ただし、ビーンには誤算もあった。高勝率で地区優勝(00、02、03年)まではするのだが、そこから先に進めない。00年から4年連続でディビジョンシリーズ敗退を喫した。

 

 なぜアスレチックスは短期決戦に弱かったのか。それは意外性が欠落していたからだ。盗塁はしない、アウトがひとつ増えるという理由でバントもしなければ、昭和の時代に流行したエポック社の野球盤のような動きのない野球になってしまう。相手からすれば、全てが想定の範囲内だ。

 

 近年、スポーツの世界において「マッドマン・セオリー」という言葉をよく耳にする。あの監督は何をやってくるか読めない。あの選手は、何を仕掛けてくるかわからない――。相手を予測不可能な状況に置くことで、いくばくかのアドバンテージが得られるというのだ。

 

 ドジャースがヤンキースを倒し、初めて世界一になった55年のワールドシリーズでは、第1戦の8回、4対6と2点のビハインドで2死からジャッキー・ロビンソンが本盗を決め、それを機に<チーム全体が見違えるようなファイトを見せはじめた>(自著『黒人初の大リーガー』ベースボール・マガジン社)。

 

 8度目の世界一まで、あと1勝としたドジャース。ブルックリン時代からドジャースにとってヤンキースは特別な相手だ。エベッツフィールド時代のファンは敵の本拠地をファシスト・スタジアムと呼び、宿敵との試合を「聖戦」と位置付けた。

 

 第2戦での大谷翔平の二盗も、アウトにこそなったものの、仲間を鼓舞しチームに結束をもたらした。左肩を負傷しても試合に出続ける大谷は、存在自体が「聖戦」の象徴でもある。

 

<この原稿は24年10月30日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>

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