これから先の人生で「ブル中野」に勝ちたい ~ブル中野氏インタビュー~
現役時代、その圧倒的な強さから「女帝」と称されたブル中野さん。ヒール(悪役)からトップレスラーへと上り詰めた波瀾万丈のプロレス人生を当HP編集長・二宮清純と振り返る。
二宮清純: 現在、お笑いタレントのゆりやんレトリィバァさんがダンプ松本さんを演じた『極悪女王』(Netflix)が話題を集めています。当然、相方だったブルさん役も出てくるわけですが、もうご覧になりましたか。
ブル中野: 見ました。師匠であるダンプさんの物語と聞いていたのですが、対戦相手であるクラッシュギャルズさん(長与千種とライオネス飛鳥のタッグチーム)の物語でもあり、互いの立場からあの時代を表現したという意味でも興味深かった。何より、コンプライアンス違反だらけだった当時の全日本女子プロレスをよく描くことができたなと(笑)。
二宮: まあ“昭和”ですからね(笑)。そもそも、なぜプロレスに興味を?
ブル: きっかけはプロレス好きの母の影響です。小学5年の時に母に連れられてアントニオ猪木さんの試合を見に行って、一発でファンになりました。相手はすごく大きな選手で、猪木さんは流血し、負けるだろうと思っていたら最後に勝った。それを見て大感動して、「自分も何かしなくちゃ」と気持ちをかき立てられたのを覚えています。
二宮: すぐに全女に入ろうと思ったのですか?
ブル: 母が「そんなにプロレスが好きならやってみれば」と、勝手に全女へオーディションのハガキを出したところ、受かってしまいました。ただ、私は中学1年で入門は15歳からだったので、中学卒業を待たなければなりませんでした。
二宮: 当時の全女は入門後にプロテストがあって、それに合格して始めてデビューという流れでした。プロテストは大変でしたか?
ブル: 2回不合格で、3回目にやっと合格しました。当時は3回落ちると全女をやめないといけないルールがあって、お情けで合格した感じです。体は大きかったものの、不器用で基礎体力もなかったので、会社の人たちは「最初にやめるだろう」と思っていたようです。
二宮: 入門から6カ月後の1983年9月にプロデビューを果たし、84年9月に全日本ジュニア王座を獲得するなど活躍を見せますが、その直後にダンプさん率いる「極悪同盟」に加入します。もともとヒール志望だったんですか?
ブル: いえ、最初はビューティ・ペアのように歌って踊れるアイドルレスラーになりたかったんです。
二宮: ああ、女子プロレスブームの火付け役となったジャッキー佐藤さんとマキ上田さんのタッグチームですね。それがどうしてヒールに?
ブル: 入門して1年目は全員がベビーフェイスなのですが、2年目の正月に会社の方針が暗に伝えられるんです。会社から渡されるジャージが赤色だったら今年もベビーフェイス、黒か紺だったらヒール。
二宮: 自分の意思ではなく?
ブル: はい。私がもらったジャージは黒でしたが、それで最終決定ではなかったので様子を見ていた。するとダンプさんから、「お前は、デブでブスなんだから悪役になるしかない」と勧誘されました。
二宮: 今ならパワハラで訴えられるレベルですね(苦笑)。
ブル: 本当に(笑)。でも、当時は先輩の言うことには「はい」か「YES」しかない時代で、しばらくは何となく聞き流していたのですが、1週間ほどたった時に観念して、「分かりました」と答えました。すると、すぐにダンプさんは私の手を引いて社長室に連れて行き、「社長、中野が悪役になりたいと言っています」と。それで社長が「ああ、そうか」と答えて、極悪同盟への加入が決まりました。
二宮: ダンプさんからすれば、相方が欲しかったんでしょうね。
ブル: ダンプさんは、極悪同盟にプロレス人生を賭けていました。これが最後のチャンスだと思っていたようで、ヒールになりきろうと決意していた。でも、当時相方だったクレーン・ユウさんはダンプさんと同期で、どちらかというとかっこいい感じのヒールでした。悪に染まり切れない様子を見ていて、ダンプさんは「このままではトップになれない」と考え、それで自分の言う通りに動く後輩の私に声を掛けたのだと思います。
二宮: 極悪同盟時代のブルさんといえば、半分だけ髪の毛を剃り上げるヘアスタイルが印象に残っていますが、あれはご自身でそうしようと?
ブル: いえ、ダンプさんのしわざです。極悪同盟に入ったものの、ヒールになり切れない自分がいて、ダンプさんもそれを見透かしていたんだと思います。それである時、「お前はかわい子ぶっているからダメだ。頭をモヒカンにしろ」と。そして、九州巡業時のどこかの会場の控え室で底を切った黒いゴミ袋をかぶせられ、頭だけ出した状態で押さえつけられて髪を剃られたんです。でも半分剃ったあたりでダンプさんも飽きたみたいで、「お前は半人前だから半ハゲでいい」と言われ、あの髪型になりました。
二宮: これはパワハラどころの騒ぎじゃない(苦笑)。
ブル: まあ、そういう時代ということで(笑)。でも、あれで覚悟が決まりました。当時、全女は三禁(酒・タバコ・男)だったのですが、実は私、隠れてファンの方とお付き合いしていたんです。でも、あの髪型になった途端に自然消滅。それどころか、いつの間にか他の選手と付き合い始めていました。その時に私は、「女性としての幸せや普通の生活は、すべて捨てよう。リングの中にいる時だけが、自分の生きる時間なのだ」と覚悟を決めたんです。
二宮: 当時はおいくつですか。
ブル: 入門して2年半くらいなので17歳ですね。この時、本当の意味で「プロレスラー」になったんだと思います。
二宮: 「女帝」への道は、そこから始まったわけですね。それにしても、人気絶頂だったクラッシュ相手にあれだけ傍若無人に暴れたら、ファンからも相当反感を買ったでしょう?
ブル: はい。週に3~4回テレビで全女が放送されていたこともあって、多くの人にただのヒールではなく、本当に悪いヤツだと思われていました。だからバスで会場に着くと、町の不良や試合を見に来たファンが、石を持って待っているんです。それでダンプさんや私がバスを出て会場に向かうと、その石を投げつけてくる。もちろん、痛くないふりをしていましたけど……。
二宮: やり返したりはしなかった?
ブル: いや、結構やり返しましたよ。ダンプさんが入場すると、後ろから殴りかかったり、空き瓶を投げつけたりするヤツがいて、それを捕まえるのも私たちの仕事でした。最初はそれこそ痛めつけていたのですが、やがて「ファンに手を出してはいけない」と言われるようになったので、腕立て伏せやスクワットを100回やらせたりしました。それもダメとなったので、最後は「面白いことをやって、極悪同盟の誰かを笑わせたら帰してやる」と(笑)。
二宮: コント状態ですね(笑)。今振り返って、ヒールになって良かったと思いますか。
ブル: もちろんです。もし私がベビーフェイスだったら、普通のレスラーで終わっていた。それがデビューして2年目の何もできない若手が、ダンプさんと組んだことでいきなりメインに立てたり、クラッシュさんと試合したり……。もう感謝しかありません。
(詳しいインタビューは12月1日発売の『第三文明』2025年1月号をぜひご覧ください)
<ブル中野(ぶる・なかの)プロフィール>
1968年1月8日、東京都北区出身。小学5年の時、アントニオ猪木の試合を見てプロレスに興味を持つ。83年、全日本女子プロレスに入門し、同年9月にプロデビュー。84年9月、全日本ジュニア王座獲得。同年10月、ダンプ松本の誘いで極悪同盟に加入した。85年2月、リングネームを「中野恵子」から「ブル中野」に改名。クラッシュギャルズとの抗争で女子プロレスブームを巻き起こす。88年、ダンプ松本の引退を機にヒールユニット「獄門党」を結成。青色に染めた逆立てヘアをトレードマークに、WWWA世界シングル王者を獲得(90年1月)するなど、トップレスラーとして団体を牽引した。93年から94年にかけてWWF(現・WWE)に長期遠征。同年11月、WWF世界女子王座を獲得した。97年、米遠征中に負ったケガにより現役を引退。2024年4月、日本人女子レスラーとしては史上初となるWWE殿堂入りを果たす。現在は、YouTubeチャンネル「ぶるちゃんねるBULLCHANNEL」を開設する傍ら、米女子団体のコミッショナーとしても活動中。