「恐怖で手が震えた」金メダルを懸けた戦い ~水谷隼氏インタビュー~

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 日本卓球界初の五輪金メダル獲得をはじめ、日本卓球の歴史を塗り替えてきた水谷隼さん。五輪での戦いと知られざる葛藤を、当HP編集長・二宮清純とともに振り返る。

 

二宮清純: 水谷さんといえば、やはり北京(2008年)、ロンドン(12年)、リオデジャネイロ(16年)、東京(21年)と、4大会連続で出場したオリンピックでの活躍が強く印象に残っています。そこで今日は、五輪の戦いを中心にお聞きしたいと思います。まず初出場となった北京ですが、緊張やプレッシャーはありましたか。

水谷隼 当時の日本卓球界は、まだ誰もメダルを取っていませんでしたし、正直、メダルにかすることすらできないような状況でした。そんな中で私自身も、五輪に出場できるというだけで舞い上がっていた。口では「目標は金メダル」と言っていたものの、その覚悟は十分ではありませんでした。その分、緊張やプレッシャーは全くなかったですね。

 

二宮: その北京ではシングルスでベスト32止まりでしたが、次のロンドンではベスト16まで進みました。

水谷: ベスト16といっても、第3シードで3回戦からの出場だったので、1つ勝っただけです。当時、世界ランキング4位だったこともあり、周囲はもちろん、私自身もメダルを強く意識していました。その結果、緊張して全く自分のプレーができなかった。悔しさだけが残った大会でしたね。

 

二宮: 確かに、シングルスか団体(5位)のどちらかでメダルを取るだろうという予測が多かったですね。

水谷: 今だから笑い話にできますが、メダルを取ったら取材や番組出演が増えると思い、五輪後のスケジュールを1カ月くらい空けておきました。それぐらい手ごたえを感じていたんです。結局、その期間は何もやることがなくなり、山形に合宿で車の免許を取りにいきました(苦笑)。

 

二宮: 次のリオ五輪では、シングルスで男女通じて日本人初となる(銅)メダル獲得。さらに団体で銀メダルを獲得しました。シングルス3位決定戦の勝利後、コートに倒れ込んで力いっぱいに雄たけびを上げる姿が印象的でした。

水谷: 団体の銀もうれしかったですが、シングルスの銅メダルは本当に夢のようでした。最後の雄たけびは、ロンドン以降ずっと抱えていたモヤモヤやもどかしさをすべて吐き出した感じです。

 

二宮: そして東京五輪です。男子団体で銅メダル、伊藤美誠選手と組んだ混合ダブルスで念願の金メダルを獲得しました。自国開催で日本卓球界初の金メダルを獲得。最高の気分だったのでは?

水谷: めちゃくちゃうれしかったです。実はロンドン後に、リオが終わったら引退しようかと考えていたんです。ところが五輪後の2013年9月に東京での開催が決まった。それが本当にうれしくて、東京まで頑張ろうと決めました。

 

二宮: 東京五輪が始まるころ、水谷さんは目の調子が悪かったと報じられました。

水谷 ビジュアルスノー症候群です。当時は眼科医でも知らない人が多かったくらい珍しい病気で、ずっと目の前で雪が降っているような、あるいは砂嵐が吹いているような感じに見えるのです。

 

二宮: 症状が出たのは突然ですか。

水谷: 視力が落ちるなど以前から不調だったのですが、この症状が出たのは突然です。2018年1月、張本智和選手との全日本選手権決勝の時でした。

 

二宮: 原因や治療法は分かっているのですか。

水谷: 原因は不明で、今のところは治療法もありません。日本の著名な眼科医はもとより、アメリカの大学でも診てもらいましたが、目自体に異常は全くないと言われました。

 

二宮: 視界が悪くなる症状ですから、試合にも影響したでしょう。

水谷: 特に集中すると症状が強くなるので、発症して以降は、集中力を高めなければならない競り合いに弱くなりました。当然、逆転負けも増えていきました。

 

二宮: 治療法はないとしても、何か対処法はないのですか。

水谷: LEDなどの強い光で症状が強く出るので、東京五輪では特別に作ってもらったサングラスをかけて、目に入り込む光を軽減しながら試合に臨みました。

 

二宮: そうした大変な状態の中での東京五輪だったわけですね。そして伊藤選手とのコンビについてもお聞きします。年齢的な差がありますから、水谷さんはお兄さんのような感じだったのでしょうか。

水谷: 12歳の差(大会時)があるので、そんな感じですね。ただ、彼女は世界のトップアスリートなので、年下とか女性とかそういうのは一切考えずに、1人のアスリートとして見ていました。

 

二宮: 混合の場合は、女子選手のほうが狙われやすいですよね。

水谷: そうですね。ただ彼女は、中国選手を除けば世界で一番強い女子選手なので、男子のボールにも対応できます。それに彼女のラケットは、バック面に突起のある異質なラバーを貼ったものなので、男子選手でもなかなかボールが取りにくいのです。

 

二宮: 具体的にどのあたりが違うのでしょうか。

水谷: 一般的なドライブで打った場合にはボールにトップスピンがかかりますが、彼女が打つと回転が複雑なナックル系のボールになるんです。特に強く弾いたときは、猛烈なバックスピンのかかったナックルになります。そのボールを返す場合、相手は回転をかけて上に飛ばそうとするのですが、飛ばしすぎるとオーバーミスするし、普通に打てばネットに引っかかるので、コートに収まる幅が狭くなるんです。

 

二宮: だから男子でも返すのが難しいと?

水谷: はい。一方でこれは表現が難しいのですが、伊藤選手の打ったボールを相手がうまく返球できた場合、ボールには伊藤選手のかけた回転が残ります。それを打ち返すのはすごく大変なので、諸刃の剣みたいな部分がありますね。

 

二宮: 卓球は結局、ボールの回転のスポーツですよね。

水谷: おっしゃるとおり、回転がすべてです。

 

二宮: トップ選手の打つボールは、最速で120㎞にもなるといわれます。当然、ボールの回転を読むなんてことは、考えてできることじゃないですよね。

水谷: はい。予測が大半を占めます。自分の打ったボールが厳しいコースに行けば、次は甘いボールが来るし、甘いコースに行けば厳しいボールが返って来ます。だから、打った瞬間に次どこに来るかを予想しながら動くんです。

 

二宮: 今から16年前、19歳の水谷さんにインタビューした時、「卓球は3球目が勝負」という言葉が返ってきました。

水谷: それは今も変わりません。厳しいサーブを放ち、甘いボールが返ってくる。それを打って決める。この3球目で決めるというのが、私の中のベストプレーです。

 

(詳しいインタビューは12月28日発売の『第三文明』2025年2月号をぜひご覧ください)

 

水谷隼(みずたに・じゅん)プロフィール>

1989年6月9日、静岡県磐田市出身。卓球経験者の両親の影響で5歳から卓球を始める。小学2年時に全日本卓球選手権大会バンビの部で優勝するなど早くから才能を開花させ、中学では卓球の名門・青森山田中学校に転校。2年時に全日本卓球選手権ジュニアの部で優勝し、ドイツ・ブンデスリーガに卓球留学も経験する。青森山田高校2年時に全日本卓球選手権男子シングルスで初優勝(当時史上最年少)。以降、10年まで5連覇、歴代最多となる10回の優勝を果たす。五輪には、明治大学1年時に初出場した北京大会(08年)から21年の東京大会まで4大会連続で出場。16年のリオデジャネイロ大会で男子団体銀メダル、男子シングルス銅メダル(シングルスで日本人初のメダル)、東京大会で男子団体銅メダル、伊藤美誠と組んだ混合ダブルスで日本卓球界初の金メダルを獲得。東京大会後に現役を引退した。現在はタレント、スポーツキャスター、卓球解説など多方面で活動中。

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月刊誌「第三文明」で2010年1月号より好評連載中の「対論×勝利学」は、 二宮清純が一流アスリートや指導者などを迎え、勝利への戦略や戦術について迫るものです。 現場の第一線で活躍する人々をゲストに招くこともあります。 当コーナーでは最新号の発売に先立ち、インタビューの中の“とっておきの話”をご紹介いたします。

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