悔しさが残ったパリ五輪。でも「チャンスはある」 ~旭化成陸上部・葛西潤インタビュー~
創価大学駅伝部時代、エースとしてチームを牽引した葛西潤。初出場となったパリオリンピックの戦いを終え、当HP編集長・二宮清純が現在の心境や今後の目標を聞く。
二宮清純: まずはパリ五輪、お疲れさまでした。五輪初出場だったわけですが、緊張はなかったですか。
葛西潤: あまり緊張はしませんでした。そもそも五輪を意識し始めたのが今年に入ってからで、出場が決まったのも大会直前の7月。慌ただしく毎日が過ぎ、気づいたら本番という感じでした。それなので終わった今、映像などを見て「本当にあそこ(パリ)にいたんだな」と、じわじわと実感が湧いてきています。
二宮: 五輪のレース(男子10000m決勝)を振り返っていただきたいのですが、目標はどのあたりに置いていたのでしょう?
葛西: 入賞が一つの目標でした。近年の世界大会や五輪では、27分30秒あたりが入賞ラインになっています。それを見越して中盤にペースが落ち着き、駆け引きの中で先頭集団から落ちてくる選手を拾いつつ、自己ベスト(27分17秒46)を更新、あるいはそれに近いタイムを出せれば狙えるかなと。
二宮: なるほど。ところが実際のレースはなかなかペースが落ちず、優勝したジョシュア・チェプテゲイ選手(ウガンダ)のタイムは、五輪新の26分43秒14。一方、葛西選手は27分53秒18で20位でした。こういうレース展開は想定していましたか。
葛西: 正直、ここまでタイムが速くなるとは思っていなかった。あのペースについて行ったら後半まで持たないので、とにかく前が落ち着くのを待っていたのですが、最後までペースが緩むことなく進んでいきました。
二宮: まさに“10000mかけっこ”という感じでしたよね。ご自身の成績についてはどうですか。
葛西: 悔しい思いしかありません。タイムに関しては国内大会だと上位に来るタイムでそれほど悪くなかったのですが、生モノのレースに対応できなかったことが本当に悔しいです。判断力も、実力も、経験もまだまだ足りないと感じましたし、改めて世界のレベルの高さを痛感しました。周回遅れの経験も、これまではなかったので、こんなにも悔しいものかと……。
二宮: ここからは葛西選手の陸上人生を振り返ってもらいたいのですが、陸上競技を始めたきっかけは?
葛西: 兄と姉が陸上をやっていて、中学に入る時、「場所が一緒だと応援もラクだから、陸上にしたら?」と親に言われたのがきっかけです(笑)。
二宮: その後、関西創価高校3年の時に全国高校駅伝に初出場し、U20日本選手権のクロスカントリー(8㎞)で優勝。創価大学に進学してからは、1年の時から箱根駅伝に出場しました。
葛西: 1年の時は急遽、山下りの6区を走ることになりました。後半に足が痛くなって満足な走りはできませんでしたが(区間16位)、チームとして初めてシード権(総合9位)を獲得できたので、その点はよかったです。
二宮: ちなみに、榎木和貴監督とお話しした時に選手をケニアに行かせていると聞いたのですが、葛西選手もケニアに?
葛西: はい。1年と4年の時に合宿で行きました。特に1年の時は1人で行ったので、いろいろ思い出があります。
二宮: 1人で⁉ それは榎木監督の勧めですか。
葛西: そうですね。今でも、よく行ったなと思います。もうほとんど修行でした(苦笑)。
二宮: 生活環境も全く違うところに行くのは不安だったでしょう。野生動物に襲われそうになったことは?
葛西: 実際に襲われはしませんでしたが、「カバは危ないから近づかないで」と言われました。
二宮: ライオンじゃなくてカバですか。
葛西: カバが一番危ないらしいです。思いのほか足が速くて、人を襲うこともあるそうです。
二宮: 大変な環境ですね。実際の練習はどうでしたか。
葛西: 日本で行う高地トレーニングは1000~2000m程度ですが、現地は2500mぐらいだったので、相当きつかったです。道も不整地なので、ランニング一つとっても大変でした。
二宮: でも、ケニアは陸上の長距離王国ですから、そこでの練習を経験できたことは大きかったのでは?
葛西: 大きかったです。向こうにいる時は全く練習についていけず、1カ月ほどの練習期間が終わって帰国する際には落ち込んでいたのですが、日本に帰ってきたらラクに練習ができて驚きました。気づかぬうちに心肺機能も高められていたのだと思います。
二宮: そして迎えた2年の箱根駅伝では、スピード区間の3区で区間3位の走り。チームも往路初優勝を達成し、総合準優勝でした。この準優勝は、私も強く印象に残っています。9区まで首位を走っていて、総合優勝への期待が高まっていました。当の選手たちは、どのような気持ちだったのでしょう?
葛西: あの時はコロナ禍で、現地で応援ができませんでした。それで私は、往路を走ったメンバーやほかの選手と寮でテレビ観戦していました。「総合優勝するかもしれない」とは思いましたが、あそこまでうまくいくとは予想しておらず、正直、優勝にはこだわっていなかった。ただ、無事にゴールしてくれればそれでいいと思っていました。
二宮: 優勝へのこだわりは強くなかったと?
葛西: はい。4年間で優勝争いできるチームになれば……くらいのことは考えていましたが、それが2年目で往路優勝した。みんな口には出さないものの、「もしこれで総合優勝したら、来年以降どうするんだろう」と思っていたんじゃないでしょうか。私もそう思いました。優勝できずに悔しかったというよりも、準優勝できてみんなで大喜びしたというのが実情です。
(詳しいインタビューは11月1日発売の『第三文明』2024年12月号をぜひご覧ください)
<葛西潤(かさい・じゅん)プロフィール>
2000年10月24日、愛知県名古屋市出身。きょうだいの影響で中学から陸上競技(長距離)を始める。関西創価高校3年時にチームを全国高校駅伝初出場に導き、U20日本選手権のクロスカントリー8㎞で優勝した。創価大学進学後は、1年から4年まで箱根駅伝に出場。2年時は、3区で区間3位の走りを見せ、チームの往路初優勝、過去最高の総合準優勝に貢献。4年時は直前に左脛の疲労骨折が判明したが、7区で区間賞を獲得した。大学卒業後は旭化成に入社。24年1月の第68回全日本実業団駅伝では、5区で区間2位と好走。同月の第29回全国男子駅伝では大阪府チームで3区に出場し、区間新記録で区間賞を獲得した。同年5月、第108回日本選手権男子10000mで日本歴代4位(27分17秒46)のタイムで初優勝。オリンピック初出場となった8月のパリ五輪陸上男子10000m決勝では、27分53秒18で20位。