「あんなふうにオリンピックで演技できたらいいな」――テレビの向こうでは世界最高峰の舞台で活躍する先輩の姿があった。
1992年、バルセロナオリンピック。団体で銅メダルを獲得した体操日本代表の一人、畠田好章の姿が高校1年の藤本佳伸にはまぶしく見えた。畠田は藤本が当時通っていた鳴門高校器械体操部OBだった。小、中学校時代には同じ体操クラブに通っていた先輩であり、彼にとっては身近な存在だった。その畠田が世界の舞台で堂々と演技している。その姿に藤本はほんの少しだけ将来の自分を重ねていた。はっきりと「目標」とは言えないまでも、オリンピックは彼にとって目指すべき舞台であることは確かだった。しかし約1年後、その夢ははかなく散った。それはあまりにも突然の出来事だった。
 藤本が生まれ育った徳島県鳴門市瀬戸町撫佐は、鳴門本土とは小嶋門新橋で結ばれた島田島にある。島は播磨灘、鳴門海峡、ウチノ海、小嶋門海峡に覆われ、南部に位置する瀬戸町撫佐はウチノ海が一望に広がる漁業の町だ。贅沢すぎるほどの自然に恵まれた環境の中、子どもの頃の藤本はいつも元気よく走り回っていた。

 そんな藤本が器械体操を始めたのは小学3年の時だった。近所に鳴門市内の体操クラブに通っていた兄弟に誘われるようにして、2人の兄とともに始めたのがきっかけだった。将来性を見込まれた藤本は、すぐに選手育成コースへと入れられた。そこには4歳上の畠田もいた。
「僕が小、中学生の時、地元の鳴門高校器械体操部は全国でも強くて、団体や個人で優勝していたんです。その時のエースが畠田くんでした。その後、オリンピックにも出場して……。身近な存在だった人が世界の舞台で活躍していましたから、やっぱり憧れましたよね。『いつか自分も……』とオリンピックを夢見ていました」

 中学卒業後、藤本は鳴門高に進学し、器械体操部に入った。その頃にはもう、器械体操は藤本にとって生活の大半を占めるようになっていた。そんな彼に悪夢が襲ったのは高校2年のことだった。インターハイの予選を1週間後に控え、藤本はその日もいつものように練習に励んでいた。アクシデントが起きたのは鉄棒での練習の時だった。鉄棒上で倒立した状態から背中側に倒れ、そのまま両足を鉄棒の下にくぐらせる“アドラー”という技をした際、鉄棒との間に両足がはさまったまま、肩がロックされた状態になってしまったのだ。前にも後ろにも回ることができず、藤本はそのまま真下に落下するしかなかった。運の悪いことに、そこには補助マットが敷かれていなかった。
「あ、神経いったな。終わったか……」
 落ちた瞬間、藤本には自分に何が起きたのか、おおよその想像がついていた。

 すぐに救急車で市内の病院に運ばれた。入院は4カ月にも及んだ。最初の約2カ月間はギブスをつけたままほとんど寝たきりの状態だった。
「入院中はいろいろなことを考えました。一番に思ったのは両親に申し訳ないということ。『健康に産んでくれたのに、ごめんなさい』と……。自営業で忙しい中、祖母や母が僕の付添をしなければいけなかったですしね。それと、自分の生活の大半を占めていた器械体操ができなくなったことで、この先、何をしていいのかわからなくなりました。いえ、それ以前にこの先、たとえ退院しても自分一人でちゃんと生きていけるのかさえもわからなかった。頭の中はもう、真っ白状態でしたね」

 これまで自分の意思のまま動かせていた両足は、まるで他人の足であるかのように何も感じることができなかった。17歳の藤本にはあまりにも過酷な現実だった。
「ある日、窓を見ていて、ふと思ったんです。『あそこまで行ったら、飛び降りることができるんだな』って。でも、すぐに気づきました。『あぁ、そうか。今の自分は窓まで行くことさえもできないんだ』って」
 この時の藤本には生きていく希望は全く見えなかった。

 車いすテニスとの出合い

 退院後、藤本は親の勧めもあって高校へと復学した。学校側は教室を2階から1階へと移し、教室の側には車椅子用のトイレを設置するなど、受け入れ体制を整えてくれた。おかげで藤本は無事に卒業し、大学への進学も果たした。大学では最初こそ車椅子の自分への好奇な目が気になっていたが、そのうち友人もでき、車椅子の生活にも、そして自分にも怖気づくことはなくなっていった。

 しかし、やはり人生の目標は見つからなかった。周囲が就職を決めていく中、焦りを感じながらも自分は何をしたいのか、何ができるのか、皆目見当がつかなかった。
「大学4年間で車椅子の自分に対しては強くなれたものの、まだその頃は夢もなくて、生きているという実感はなかったように思います」
 結局、就職することはできず、卒業後も実家の手伝いをしながら就職活動を続けていた。

 そんなある日のことだ。藤本は何となくつけたテレビの画面にくぎ付けになった。それはプロテニスツアーの試合だった。もちろん、それまでもテニスは観たことはあった。しかし、藤本にとってテニスは「勝負が決まるまで長時間を要する」スポーツにすぎず、ほとんど興味を示すことはなかった。ところが、じっくり観てみると、プロの巧みなラケットさばきに藤本の胸は高鳴った。「うわぁ、面白そうだな」。そして、思った。「もしかして、車椅子でもできるんじゃないかな」。実はその頃、車いすテニスの存在を藤本は知らなかったのだ。

 そこで当時、お世話になっていたリハビリの医師にそのことを話すと、「新聞で徳島の車いすテニスのクラブが大会を主催していたのを見たことがあるよ」と、すぐにその記事を持ってきてくれた。藤本は早速その記事を頼りに徳島県身体障害者福祉センターを訪ねて行き、車いすテニスクラブ「フィフティーンラブ」の仲間に入った。クラブでは週に一度、健常者とともにゲーム形式の練習が行なわれた。藤本はすぐにテニスに夢中になった。あまりの熱心さに週に1度の練習では物足りなさを感じるほどだった。車いすテニスがパラリンピックの正式種目であることを知ったことも、藤本を夢中にさせる要因となっていた。

 そんな藤本に転機が訪れたのはクラブに通い始めて2、3カ月目のことだった。なんと、クラブのメンバー全員でシドニーオープンに出場することになったのだ。時は2000年1月。その年の秋にはシドニーオリンピック・パラリンピックが開催されることになっており、その会場で行なわれる初めての大会だった。

「当時の僕はまだルールさえもよくわかっていなかったんです。サーブをどこに入れるかということと、ようやくポイントの数え方を覚えたくらいで……。わけもわからず、クラブのみんなに誘われるがままに行ったのですが、そこには各国のトップ選手がこぞって参加していました。当時、日本でNo.1だった斎田悟司さんをはじめ、パラリンピックでメダル争いをするくらいの選手たちのプレーを間近で見ることができたんです。もう、凄すぎました! 自分と同じ車椅子に乗っている人が、目の前で機敏に車椅子を動かして、パーン、パーンとすごいボールを打ち返すんですから……。『うわぁ、すげぇ。本当にこれってスポーツなんだな』って思いましたよ」

 そこで繰り広げられた光景に、藤本は目を奪われた。そして、ある一つの思いが藤本の心の中で芽生えていた。「自分もこんなふうに強くなって、絶対にパラリンピックに出場しよう!」。それまで漠然と思っていた夢が、明確な目標へと変わった瞬間だった。突然の事故から6年半。藤本はようやく第2の人生を歩み始めた。

(第3回につづく)

藤本佳伸(ふじもと・よしのぶ)プロフィール>
1976年5月13日、徳島県生まれ。小学3年から器械体操を始め、県内随一の名門・鳴門高に進学。しかし、2年時に鉄棒から落下し、下半身不随に。その後は車いす生活を余儀なくされる。大学卒業後、23歳から車いすテニスを始める。より高いレベルを目指し、2005年に千葉県に生活の拠点を移し、パラリンピアンを数多く輩出しているTTC(テニストレーニングセンター)に通い始める。08年北京パラリンピックに出場し、シングルス、ダブルスともにベスト16進出を果たす。12日現在、世界ランキングはシングルス、ダブルスともに14位。
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(斎藤寿子)
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