第212回センターバックコンビで奪った93年天皇杯決勝のゴール
今年のサッカー天皇杯の決勝戦のカードはガンバ大阪対ヴィッセル神戸の関西勢対決となりました。見事、神戸が天皇杯の頂点に立ちました。104回のサッカー天皇杯の歴史の中で、関西の2チームにより決勝戦はこれがまだ2回目だそうです。今回は神戸に感じた変化や、長い歴史を誇る天皇杯の中で、僕が出場した1993年の決勝戦を振り返りましょう。
イニエスタや酒井らの貢献
初めての関西勢同士による決勝は71大会ぶりでした。対戦カードは全関学(兵庫)対大阪クラブでした。全関学は関学大の現役選手とOBで編成されたチームだったそうです。対する大阪クラブは明星高のOBにより結成されたチーム。この時は5対4で全関学が勝利しました。
さて、この天皇杯優勝により2年連続でタイトルを獲得した神戸。23年に神戸を離れ、この10月に現役を引退したアンドレス・イニエスタの貢献は大きいです。世界のトップとは何たるか、をクラブに浸透させたことは大きかったように思います。選手だけでなく、フロントも意識が変わった可能性もあります。かつて、鹿島アントラーズの前進である住友金属にジーコがやってきたときのような役割を担ったことは想像できます。
イニエスタに加え、DF酒井高徳、FW大迫勇也、FW武藤嘉紀ら、海外で活躍していた選手の貢献は絶大でした。特に酒井は、練習からばちばちとした雰囲気で行なうことをチームメイトに徹底させていました。これもかつて、僕たちがジーコに口酸っぱく言われたことでした。「練習の練習じゃ、ダメなんだ! 練習でできないことは、試合でもできない。練習から相手の良いところを消し、自分たちの良いところは全力で出せ!」と指導してくれたものです。
93年の天皇杯決勝
僕が出場した93年の天皇杯決勝、鹿島アントラーズ対横浜フュリューゲルス戦。こちらはジーコを怪我で欠いていました。相手は前田治、前園真聖、エドゥー、山口素弘らがおり、非常に勢いのあるチームでした。こちらは後半18分に退場者を出したものの何とか粘り、90分が終わって2対2。しかし、延長戦に入り、2対6で敗れました。アントラーズが黒崎比差支の得点で前半6分に先制しましたが、44分、後半18分にエドゥーに2つのPKを決められました。しかし、44分に僕のアシストからアントラーズが同点に追いつきました。
その得点シーンを、覚えている範囲で振り返りましょう。右サイドのゴールから遠い位置で得たFKをアルシンドがペナルティーエリア左のファーサイドにクロスを送りました。これを長谷川祥之が打点の高いヘディングで中に折り返しました。ボールはゴール前右サイドにいた私のもとへ。しかし、後ろ向きでボールに触らざるを得ませんでした。ゴールに背をむけていたため「シュートは無理だ」ととっさに判断し、頭で再度、中へ折り返しました。このパスが奥野遼右のもとへ転がり、彼が目の覚めるような鮮やかな右足ボレーをゴールネットに突き刺しました。無我夢中で喜んだのを覚えています。このコラムの編集担当者から「随分と落ち着いているように見えましたが、奥野さんのポジションは把握していたんですか?」と聞かれました。
実は、僕としては全然落ち着いていなくて、奥野の位置は見えていませんでした。自分が無理やりシュートを打とうとしてもゴールの可能性は低い。それならばもう1回折り返して、ゴール前の混戦に期待した方が確率は高いと瞬時に判断し、折り返しました。そこに奥野がいいタイミングで走り込んできてくれて、一時同点に追いつけました。
前半はこちらのペースでした。最終結果は準優勝で涙を飲むかたちになりましたが、試合終了のホイッスルが鳴った瞬間から、「結果は残念でファン・サポーターには申し訳なかったが、そこまで悲観する出来でもない。来季こそ!」と瞬時に切り替えて、メダルを首にかけたことを今でも覚えています。
●大野俊三(おおの・しゅんぞう)
<PROFILE> 元プロサッカー選手。1965年3月29日生まれ、千葉県船橋市出身。1983年に市立習志野高校を卒業後、住友金属工業に入社。1992年鹿島アントラーズ設立とともにプロ契約を結び、屈強のディフェンダーとして初期のアントラーズ黄金時代を支えた。京都パープルサンガに移籍したのち96年末に現役引退。その後の2年間を同クラブの指導スタッフ、普及スタッフとして過ごす。現在、鹿島ハイツスポーツプラザの総支配人としてソフト、ハード両面でのスポーツ拠点作りに励む傍ら、サッカー教室やTV解説等で多忙な日々を過ごしている。93年Jリーグベストイレブン、元日本代表。
*ZAGUEIRO(ザゲイロ)…ポルトガル語でディフェンダーの意。このコラムでは現役時代、センターバックとして最終ラインに強固な壁を作った大野氏が独自の視点でサッカー界の森羅万象について語ります。