東京で生活をし、野球を見る。茫然と、野球を見る。
 たとえば、センバツ第4日目、第3試合(3月26日)を見た。国学院久我山−九州学院戦。久我山のエース川口貴都は180センチ、82キロの2年生。しっかりとした体をしている。普通に投げて、ストレートは140キロを超える好投手である。将来、プロに行っても不思議はないな。うまく成長したらローテーション投手までありえるかもしれない……。
 直感的にそう思ったものの、しかし、この日は立ちあがりから乱調である。威力のあるストレートを投げているはずなのに、痛打を浴びる。よく見ると、ストレートがずいぶんシュートしている。右打者の外角、左打者のインコースを狙ったボールが、打者の手元ではことごとくシュートして真ん中に入る。結果として、打ちごろのボールになってしまっている。

 こんなはずではなかった……。マウンドでの表情は、そう読みとれる。左右のちがいはあるが、どこか菊池雄星を彷彿とさせる顔つき(フォーム、球筋は全然タイプが違うが)。
 苦しまぎれに、変化球でカウントを稼ごうとする。これが、ボールを放す前から変化球と見破れる。ストライクをとろうとして、腕の振りがゆるむのだ。
 2回までに7失点。彼の17年の人生で、こんなに打たれたのは初めてに違いない。シュート回転さえ修正できれば、高校生ではそうは打てないボールがいくのではないかなあ……。彼の未だ見ぬ可能性に思いをはせる。

 生まれて初めて(多分)のメッタ打ちをくらった投手をもう1人見た。
 斎藤佑樹。3月21日の阪神−北海道日本ハム戦である。
 この日、斎藤はプロ初先発。0−1と1点失って迎えた3回裏、先頭・平野恵一のピッチャー返しを取れずにヒットにしてから、もういけない。続く鳥谷敬は初球の甘いストレート系を思いきりひっぱってライトへ。まるで打撃練習である。
 もともと独特のフォームだが、この日は投げるときに顔は一塁側を向いているし、腕の振りも、見るからに鈍い。体重の乗らない棒球が力なく放たれる。
 無理もない。まだ3月21日である。あの日からわずか10日しかたっていない。

 この回、なんとか抑えられたのは、4番新井貴浩だけである。外角のどろんとしたスライダーに、新井のバットは力なく空を斬る。
 当然だろう。この時期、例のプロ野球開幕問題で、選手会会長の新井は多忙をきわめ、心労も重なっていたにちがいない。それ以外の打者は、なかなかアウトがとれない。
 結局、3つ目のアウトも新井の空振り三振で取ったときは、3回を投げて13安打9失点。
 もっとも、次の登板となった3月27日の千葉ロッテ戦では、5回1失点(自責点ゼロ)に抑えている。21日だけが斎藤の実力なのではない。

 しかし、顔が一塁側にそれる、すなわち体重がまっすぐに打者方向に移動せず、ボールに力が伝わらない。腕も鋭く振れず、変化球のキレがどろんと甘くなる――悪いときに、そうなる可能性も、常に秘めているのだろう いいときは、27日のようにスイスイ抑える。悪いときは、大きく崩れる。今季の斎藤は、そんなジェットコースターのようなスリルを見る者に与えてくれるのではないだろうか。
 優等生然とした風貌で、暴力的に調子の波が激しいとしたら、それはまた魅力的なのではないか、と夢想する。

 久我山の川口は、3回以降、完全に立ち直った。要するに腕を上から下へ、タテに振ることができ始めたのである。みじめなまでのシュート回転は影をひそめ、内外角のコーナーにストレートがドスンときまる。打者は、なすすべもなく見送り、うなだれてベンチに帰る。やっぱり、それだけの素質はあるんだな。走者を出さなくなり、セットポジションが減ったのも幸いした。セットだと、1、2回の悪夢が再び顔をのぞかせる。
 一転して、8回まで無失点。こういうピッチャーはいい。ピッチャー1人でゲーム全体を支配してしまっている。自分次第で抑えもするし、打たれもする。すべてはオレの調子次第。たとえ一人相撲といわれても……。同じことは実は斎藤にも言えるのかもしれない。ピッチャーのもつ本源的な欲望とは、そんなものだ。
 久我山は追いあげる。1−7から5−7へ。5−7から、さらに……。

 川口に垣間見えた投手の本源的な欲望、あるいは打者のそれ。すなわち、野球というゲームの根源を、見事にとらえた名著がある。平出隆『ベースボールの詩学』(講談社学術文庫)である。22年前に刊行され、このほど文庫化がなった。
 詩人で草野球王である著者は直観する。バットでボールを打撃する――こんな素敵な欲望の起源が、たかだか19世紀のアメリカであるはずはない。ベースボールの起源をたずねる思索は、アメリカはもちろん、アフリカへ、全地球へおよぶ。
 野球をする欲望の原型はキャッチボールではなく、ペッパーゲームではないかとする章がある。お互いがボールを投げ、受けるのではない。ボールを投げ、木の棒で打つのだ。(これをわれわれはペッパーゲームと言いますね)。この洞察は深い。
 なによりも、ベースボールを詩においてとらえる感性がいい。あまたの詩がこの本を、まぎれもなく名篇にしている。1つだけ引いておこう。アメリカで早くから口ずさまれてきた四行詩だそうだ。

  ボールが一撃されたなら
  飛び出していくよ 少年は
  さだめられた次の杭へ
  そして 歓びいっぱいにホームへ

 久我山はさらに反撃する。
 NHKはニュースの時間となる。画面は甲子園から原子力安全・保安院の会見へ。
――ただちに人体に影響があるとは考えておりません。
 ただちに影響があるとは考えて……頭の中にリフレインが起きる。
――テレビでは、我が国の、将来の……
 井上陽水の名曲「傘がない」のフレーズが共鳴する。人間社会全体の不安と、自分の目の前にあるささやかな現実。見事に形象されていると思う。

 8回表、ついに久我山は7−7の同点に追いつく。これは大逆転かな。九州学院に、いまの川口は打てないだろう。
 9回裏。川口は難なく2つのアウトを取る。2死無走者。次の打者も、初球、快調にファウルでストライクをとる。カウント0−1。
 ここでキャッチャーはウエストのサインを出した。いい判断である。調子にのってストライクをそろえすぎたら、狙い打たれる。
 やや中腰の捕手に、ウエストボールを投げこむ。川口は、ここで腕の振りをゆるめた。立ちあがりの変化球を投げるときのように。きっちりはずすために。わずかに手元が狂う。スーッと真ん中に、ゆるんだ棒球がいく。打者はすかさずこれをとらえて、左中間三塁打。2死三塁。

 でも、まあ次を抑えればいい。低めにいこう。次打者への初球は、ワンバウンドの暴投となって、三塁走者生還。7−8。サヨナラゲーム……かんじんなときに腕の振りがゆるむ。新2年生ゆえの未熟さを言ってもいいが、とてもその気にはなれない。
 一篇の詩を思い起こす。

  われらの罪はしぶとく、悔悟の情はだらしがない。
  告白をしただけで、お釣りがくるほどの気持になり、
  卑しい涙に一切の穢れを洗い落したつもりで、
  浮き浮きと、泥濘の道に舞いもどる。
(シャルル・ボードレール『悪の華』「読者に」阿部良雄訳〔ちくま文庫〕)

 昔、読みさしたこんな詩句を、なぜ今となって思い出すのか。川口が9回裏に「泥濘の道に舞いもど」ったとでも感じたか。
 いや、それは断じて違う。むしろ、サヨナラ暴投をしたとき、彼の前には、新たな未来への道が拓けたのだ。彼はきっと成長する。彼にはそれだけの希望と未来がある。
「読者に」と題されたボードレールの詩句は、他の誰にでもなく、この私につきつけられたのだ。そして、いまや、私たちに重く重くはねかえってくる。
 茫然と、しかし、野球を見る。


上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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