ペドリット・ルイスの推薦 ~ホルヘ・ヒラノVol.10~
81年末、ホルヘ・ヒラノは生まれ故郷のペルーに帰国した。
80年シーズン途中から日本リーグ1部のフジタに選手登録、81年シーズンは序盤こそ先発から外れたが次第に出場機会を増やした。そしてフジタは日本リーグ優勝。ヒラノはその立役者であるという自負があった。
「1年目は少し日本のサッカーに馴染むのに時間が掛かった。当時の日本はフィジカル重視で、とにかく走らされた。(ディエフェンターの)マークも厳しかった。ただ、ぼくはスピードでかわすことができた」
厳しい走り込みは、後のサッカー人生に役に立ったとヒラノは振り返る。
81年シーズン終了後、ヒラノはフジタから契約更新を提示された。
「確か、7、8パーセントの上乗せだった。ただ、ぼくたちが求めたプロ契約ではなかった」
ぼくたちとは、ヒラノと同じペルー人選手であるエミリオ・ムラカミである。日本を発つ時点で、2人は恐らく、来季日本でプレーすることはないだろうと話していた。
年が明けた1月、ヒラノはペルー1部リーグのクラブに接触している。
「親戚が『LaU』(ラ・ウー)の金庫番のような人と繋がっていた。彼も日系人で、ぼくが(ウニオン・)ウアラルなどでプレーして、日本に行ったことを知っていた。彼によると、ラ・ウーのテストを受けることはできる。しかし、誰も君のプレーを知らないので、トップチームでの契約は難しい。給料もちょっとした小遣い程度かもしれない、と」
LaUこと、ウニベルシタリオ・デポルテスはペルー屈指の人気クラブである。ペルーにとって日本は遠く、サッカー後進国という認識だった。その1部リーグでの優勝は実績として認められなかったのだ。
人生を変えた男とは
ヒラノの記憶によると、その2日後に古巣のウニオン・ウアラルから条件提示があったという。
「ラ・ウーの約3倍の3万5000ソルだったかな。(月)600ドルか700ドルぐらいかな」
このウニオン・ウアラルでヒラノは人生を変える男と再会することになる。ペドリット・ルイスこと、ペドロ・ドミンゴ・ルイス・ラ・ロサである――。
ペドリット・ルイスは1947年にヒラノと同じウアラルで生まれた。66年に地元のオスカル・ベルケメイヤーというクラブとプロ契約を結び、デェフェンソール・リマ、フアン・オーリッチを経て、74年にウニオン・ウアラルに移籍。75年のコパ・アメリカにはペルー代表として出場している。ペルー代表はこの大会で2度目の優勝を成し遂げている。
76年、ペドリット・ルイスを中心としたウニオン・ウアラルはリーグ優勝。ヒラノはフジタに加入する前の77年にこの12才年上のミッドフィールダーと一緒にプレーしていた。
「彼は特別な選手だった。ペルーサッカー史上、最高の選手の1人だと思う」
82年のペルー1部リーグはファーストステージとして3つの地域で、リーグ戦が行われた。『北グループ』に入ったウアラル、5チーム中2位に入り、セカンドステージに進出。しかし、セカンドステージ・グループAでは5チーム中3位。決勝リーグには進出できなかった。ただ、ヒラノはこのリーグで十分にやっていけるという手応えを感じていた。
シーズン終了後のある朝のことだった。ヒラノはトレブランカの自宅を車で出た。
「周りはチャクラ(農園)だから道は1本。そうしたら、背広を着た人が歩いてくるのが見えた。チャクラ辺りで背広にネクタイの人は見かけない。どうしたのかなと思って、窓を開けて声を掛けた」
無名選手に破格のオファー
その男は汗を拭いながら「ヒラノという男を捜している」と答えた。
ヒラノはこう返した。
「この一帯に住んでいるのはみんなヒラノですよ。貴方の探しているのはどのヒラノですか?」
男は「コーキ・ヒラノだ」と返した。
「コーキはぼくです。何の用ですか」
コーキとはヒラノの愛称である。すると男はスポルティング・クリスタルの人間だと名乗った。
スポルティング・クリスタルはリマに本拠地を置くサッカークラブである。水色をチームカラーとして、ペルーで最大手のビールメーカー「クリスタル」が経営している。ペルーでは、アリアンサ・リマ、ウニベルシタリオと並ぶ人気クラブである。
「金額は忘れたけど、無名の選手にとっては破格ともいえる、かなりいい提示だった。まずは仮契約を結び、クラブに足を運び、会長に挨拶してから本契約を結んだ。そのとき、なぜぼくと契約したのかって聞いたんだ。そうしたら、ペドリット・ルイスの推薦だって教えられた」
スポルティング・クリスタルがペドリット・ルイスとの交渉を進めている中で、一緒にプレーしたい選手としてヒラノの名前が出たのだという。ペドリット・ルイスがヒラノをペルーのビッグ・クラブに引き揚げたのだ。
しかし、練習に参加すると、ヒラノは冷や水を浴びせられることになる――。
(つづく)
田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。最新刊は、「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」(カンゼン)
代表を務める(株)カニジルは、鳥取大学医学部附属病院一階でカニジルブックストアを運営。とりだい病院広報誌「カニジル」、千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学附属病院がんセンター広報誌「梅☆」編集長。