第276回 “7番目のFW”からの脱却 ~ホルヘ・ヒラノVol.11~

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 1983年1月、スポルティング・クリスタルの選手たちは、ランニング中心のフィジカルトレーニングを始めた。その中にはホルヘ・ヒラノの他、フジタで同僚だったエミリオ・ムラカミもいた。

 

 練習開始から約1週間後、監督のセサル・クビージャがグラウンドに姿を現した。

 

 クビージャはパラグアイの首都アスンシオン出身で、69年にペルーのアトレチコ・トリノという小さなクラブで監督としてのキャリアを始めた。その後、シエンシアーノ、アリアンサ・リマなどのペルーのクラブの監督を経て、81年シーズンからスポルティング・クリスタルの監督となっていた。

 

 クビージャは全員の選手を集めた。

「今年はいいシーズンにしたい。そのために補強をした」

 

 82年シーズン、スポルティング・クリスタルはファーストステージを首位で通過したものの、セカンドステージで5チーム中4位に沈み、優勝決定リーグに進むことができなかったのだ。

 

 そして選手たちを見回すとこう言った。

「ただし、この中には私が呼んでいない選手もいる」

 

 ヒラノは自分のことだと思った。クビージャはヒラノをこいつは誰だという風な目で見ていたのだ。

 

 FWの駒は揃っていた中で

 

 クビージャが欲していたのは、ペルー代表経験もある中盤のペドリット・ルイスだった。ペドリット・ルイスが一緒にプレーしたい選手としてヒラノの名前を挙げた。クラブ側は彼の歓心を買うために自分と契約したのだと思った。

 

 ヒラノはこう振り返る。

「そのとき、このチームでは試合に出られないなと思いました」

 

 確かにヒラノと同じポジション――フォワードの駒は揃っていた。クビージャが前線の柱として考えていたのは、ファン・カバジェロだった。

 

 58年生まれのカバジェロは、180センチと上背のあるフォワードで、78年にペルー1部リーグのスポルトボーイズでデビューしていた。80年シーズンからスポルティング・クリスタルに加入していた。

 

 カバジェロは、83年シーズンにペルー代表に選ばれ、コパ・アメリカに出場、84年からスペインリーグのエル・チェに移籍することになる。

 

「カバジェロの他、この年から加わった(ルイス・アルベルト)モラもいた。7人ものフォワードがいたんだ」

 

 セサル・ロジョラ、フリオ・アリアガ、オスカル・レオン、エミリオ・ムラカミ、そしてヒラノである――。

 

 開幕戦の相手は、コレヒオ・ナシオナル・イキトス(CNI)だった。

 

「ぼくは控え選手だったので、ベンチに座っていた。相手に先制された後、なかなか追いつくことができなかった。終了間際10分ぐらいだったかな、交代のフォワードはぼくしか残っていなかった」

 

 アウェーとはいえ、格下のCNIに敗れることはできない。監督のクビージャはヒラノに出場を命じた。

 

「終了5分前にぼくのシュートで同点に追いついて、1対1で終わった」

 

 その後もヒラノはなかなか出場機会を得ることができなかった。

 

 贔屓目なしの主将の進言

 

 2点目を挙げたのは、第6節のアソシアション・デポルティーボ・タルマ戦だった。続く第7節のウニオン・ウアラル戦でも1点を挙げている。

 

「それでもぼくは先発起用されなかった。キャプテンだったエクトル・チュンピタスはこう監督にこう言ったんだ。彼は結果を残している。先発メンバーを見直した方がいい、と」

 

 エクトル・チュンピタスはペルーのみならず南米を代表するディフェンダーのひとりである。ペルー代表として70年W杯と78年W杯に出場、75年のコパ・アメリカで優勝、79年大会では3位になっている。ペルーサッカーの黄金時代を支えた選手で、スポルティング・クリスタルには77年シーズンから在籍していた。

 

 しかし、クビージャは頑なだった。

 

「それでもぼくは控えだった。ところが、ファン・カバジェロ、モラが怪我をした。そこで監督はぼく、アリアガ、ムラカミを使わざるを得なくなった」

 

 ヒラノの印象に残っている試合のひとつは、前半戦の最後の試合、第16節のボロネシー戦だ。

 

「相手ボールからのキックオフだった。普通、フォワードの選手はボールを下げる。ぼくはそのボールを全速力で追いかけた。ディフェンダーはぼくが取りに来るのが見えているから切り返すだろう。ぼくはそれを予測して、切り返す側に回ってボールを奪った。そしてそのままシュートを打った。開始30秒ぐらいだったと思う。ボロネシーの監督は試合開始直後に、お祈りをする習慣があった。祈りを終えてピッチに入ったとき、もう先取点が入っていた」

 

 彼の驚いた顔を覚えているよと笑った。

 

 もはや彼は、“7番目のフォワード”ではなかった。

 

(つづく)

 

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。最新刊は、「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」(カンゼン)

代表を務める(株)カニジルは、鳥取大学医学部附属病院一階でカニジルブックストアを運営。とりだい病院広報誌「カニジル」、千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学附属病院がんセンター広報誌「梅☆」編集長。

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