「あれは野球の神様が教えてくれたボールなんです」。最初に取材で会った時、なんてロマンチックなことを言う人だろうと思った。言葉の主は、去る21日に他界した元ロッテのエース成田文男である。
 成田と言えばスライダーだ。おそらく日本のプロ野球で最も多くの投手のボールを受け、最も多くのボールを見たであろう野村克也から「最高のスライダーを投げた投手は成田」と聞いたのは、もう20年以上前のことだ。そして続けた。「成田のスライダーは真っすぐのスピードで真横にピュッと滑る。魔球の一種や。真っすぐの打ち方では打てん。カーブの要領でも打てん。あれ程打つのに苦労したボールはなかった」

 いつだったか「最も記憶に残っているゲームは?」と聞くと、成田は海の向こうでのゲームを挙げた。1971年春、米アリゾナキャンプでのオープン戦で成田はウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビーのいたサンフランシスコ・ジャイアンツ相手に先発し、延長10回まで投げ、1失点と好投した。両雄からも三振を奪い、「ウチに来い」と誘いを受けた。「スライダーは誰が相手でも全く打たれる気がしなかった」と語っていた。

 今でいう高速スライダー。しかもコントロールが絶妙ときている。「ホームベースの角を1ミリか2ミリ外れることはあっても、狙ってほぼ同じコースに投げることができた。よくアンパイアが目をこすりながら“1ミリ外れている”なんて言い訳したものです」
 いったい、どのようにして“魔球”を操ったのか。「人さし指と中指を直球よりもそろえて握り、斜め上の回転を与えてスピードが落ちないようにした。大切なのはヒジが出ること。手首はあまり使わない。フィニッシュの瞬間はボールを潰すような感覚でリリースしました」

 オイルショックの影響で試合の制限時間が短縮された(セ・パともに3時間を超えて新しいイニングに入らない)1974年、成田のいたロッテは日本一に輝き、巷にはキャンディーズの歌が流れていた。
 既にその頃、成田はピークを過ぎていた。現役引退後は好きなゴルフにのめり込み、取材場所はいつもゴルフの練習場だった。あれだけの技術と経験をプロの世界で後進に伝えることはできなかったものか。それだけが残念でならない。さらば、ミスター・スライダー。合掌。

<この原稿は11年4月27日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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