第277回 両親が日本人のペルー代表選手 ~ホルヘ・ヒラノVol.12~

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 1983年シーズン、ホルヘ・ヒラノが所属するスポルティング・クリスタルはファーストステージを17チーム中2位で突破、決勝リーグに進んだ。

 

 決勝リーグは上位6チームが参加、ファーストステージの上位3チームにはそれぞれ勝ち点3、2、1が加算される。対戦は全チームと1試合のみ。

 

 スポルティング・クリスタルは決勝リーグを4連勝、第3節では、ペルーで最も人気のあるクラブ、“LaU”(ラ・ウー)ことウニベルシタリオ・デポルテスウニベルシタリオと対戦した。ヒラノは2得点を挙げ、スポルティング・クリスタルは3対1で勝利している。この決勝リーグでの活躍が後からヒラノの背中を押すことになる――。

 

 最終節の相手はメルガルだった。

 

 メルガルはペルー南部、アレキパを本拠地とするクラブだ。ファーストステージ首位のメルガルはここまで2勝2分けで勝ち点9(勝ちが勝ち点2、引分け1)。スポルティング・クリスタルは勝ち点10。この試合でヒラノは2得点を挙げて4対1の勝利し、優勝を決めた。

 

 シーズンを通しての得点王は、24点のファン・カバジェロ。12点のヒラノ、7点のルイス・モーラ、6点のエクトル・チュンピータスが続く。

 

 ヒラノはこう言う。

「カバジェロの得点のほとんどはぼくからのパスだった。ぼくがエゴイストだったら、もっと自分で決めていただろう。ただ、ぼくの性格はそうじゃない。確実にチームのための得点を決めることを重視していたんだ」

 

 ペルー1部リーグの人気クラブ移籍1年目の成績としては申し分ない。ただ、本来ならば、もっと評価されるべきだった。開幕当初、“7番目”の若きフォワードがポジションを勝ちとったのだ。

 

 モイゼス・バラック監督との再会

 

 この年、83年夏、南米大陸の代表チームが対戦するコパ・アメリカが行われている。ペルー代表はコロビア代表、ボリビア代表とグループCに入り、2勝2分けで準決勝に進出した。準決勝の相手はウルグアイ代表だった。

 

 ウルグアイの中心選手は、モンテビデオ・ワンダラーズ所属、華麗な足技を持つ痩身の青年だ。ヒラノよりも2つ年下にあたるこの男――エンツォ・フランチェスコリは大会後、アルゼンチンのリーベルプレートに移籍、86年にはリベルタドーレス杯で優勝、トップスターの階段を上っていくことになる。ペルー代表はホームアンドアウェイでウルグアイ代表に敗れた。

 

 このとき、ペルー代表は世代交代のただ中にあった。

 

 70年代にペルー代表を牽引した、テオフィロ・クビージャス、ウーゴ・ソティルたちが代表引退。スポルティング・クリスタルからはルーチョ・レイーナ、ルーベン・トリビオ・ディアス、そしてフォワードでは、ファン・カバジェロ、アルベルト・モラ、フランコ・ナバーロが選ばれていた。カバジェロはともかく、他の2人のフォワードよりヒラノはクラブで結果を残していた。

 

 このとき監督を務めていた、ファン・ホセ・タンは中国系の男だった。タンは日系人選手を好まないという噂だった。

 

 この状況が年末に変わることになる。

 

 モイゼス・バラックがペルー代表監督に就任したのだ。ウニオン・ウアラルの監督時代に当時10代のヒラノを見出した指導者である。

 

 ヒラノは自分の輝かしい経歴については、淡泊であり、素っ気ない口調になる。いつ代表入りを知ったのかと訊ねると、あまり覚えていないという答えだった。

 

 2人にとっての“選考の場”

 

「基本的にはクラブに、代表に選ばれたという連絡が入り、そこから選手の自宅に電話が入る。そのときもたぶんそんな風だったんだろう」

 

 思い出したように、こう付け加えた。

「確か23人が選ばれていたんだ。正式に登録されるのは22人。ぼくは当落線上にいた。ぼくかレイ・ムニョスのどちらかが入ることになっていた」

 

 レイ・ムニョスは、ヒラノとバラック監督時代のウニオン・ウワラルで一緒にプレーしていたフォワードだった。その後、彼はウニベルシタリオに移籍していた。

 

 83年シーズンの決勝リーグは、この2人の“選考”の場でもあった。

 

 第3節のウニベルシタリオ戦、最終節のメルガル戦の得点で自分はペルー代表に滑り込んだのだという。

 

「父親と母親の両方の名前が日本人で代表に選ばれたのは、ぼくが最初だと思う」

 

 ペルーの正式な氏名では、名前の後、父親、母親の姓が続く。ヒラノの場合は、母方の姓、マツモトが加わる。ヒラノの前に多くの日系人プレーヤーがいた。ペルー代表に入った選手で、両親が日本人というのは初めてだったと思われる。

 

 84年2月26日、リマにあるエスタディオ・ナシオナルでペルー代表対ホンジュラス代表の親善試合が行われた。

 

 先発メンバーの中にヒラノの名前が入っていた。バラックが抜擢したのだ。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。最新刊は、「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」(カンゼン)

代表を務める(株)カニジルは、鳥取大学医学部附属病院一階でカニジルブックストアを運営。とりだい病院広報誌「カニジル」、千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学附属病院がんセンター広報誌「梅☆」編集長。

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