女性は西日本を代表する織布会社の次女だった。いわゆる深窓の令嬢である。女子大生の身ながら、ひとりで球場にやってきて、投手のボールの角度が、一番よく分かる席に腰かけた。
 18歳の令嬢は、この時も球場に来ていた。場所は潮の香漂う東京湾に面した洲崎球場。1936(昭和11)年12月、巨人と大阪タイガースとの間で「王座決定戦」が行なわれていた。初の職業野球日本一を決める戦いだ。

 この3連戦、巨人軍は2勝1敗でタイガースを破り、職業野球初の王座に就いた。
 ヒーローは「沢村賞」にその名をととどめる沢村栄治だった。初戦で完投勝利をおさめた沢村は第3戦でも5回から先発の前川八郎をリリーフし、4対2の勝利に貢献した。読売新聞(昭和11年12月12日付)には<沢村の快投は最後までタ軍の追撃を許さず>との記述がある。ただライバルの景浦将には初戦で「東京湾に入る」とまで言われた特大アーチを浴びた。

 女性の視線の先には常に沢村の姿があった。端正なマスク。引き締まった筋肉質の肉体。容姿に惚れたのではない。沢村が投じるボールの虜になってしまったのである。やがて二人は結ばれる。
「ボールを追いかけているうちに父のファンになってしまったそうですよ」。そう明かしてくれたのは沢村のひとり娘の美緒さん。沢村の追っかけをやっていたのは母親の優さんだ。

 生後4カ月で戦死したため美緒さんに父親に関する思い出はない。「初めて沢村栄治の存在を知ったのは私が小学校の高学年に差しかかる頃です。父を主人公にした『不滅の熱球』という映画が封切られました。何となくまわりが騒々しいので、きっと私に関わりのある人なんだろうと……」

 今年はプロ野球が始まって76年目のシーズン。来季は人間で言えば喜寿だ。今は亡き千葉茂は「プロ野球は沢村が投げ、景浦が打って始まったんじゃ」と事あるごとに口にしていた。
 プロ野球の風景が当たり前のように広がるありがたみは大震災を経験して身に染みた。平成生まれの選手やファンが増えている今、プロ野球の礎を築いた沢村や景浦ら偉大なる先達たちを顕彰する「歴史教育」の場や機会がもっとあってもいいのではないか。この頃、そんな思いを強くする。

<この原稿は11年5月25日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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