日本タイトルへの挑戦失敗から5カ月。大村は再びリングに立っていた。2月14日、後楽園ホール。相手の藤沢一成(レパード玉熊)はノーランカーだった。格下相手に「きれいに勝ちたい」「倒したい」との思いはこれまで以上に強かった。
 ところが、その強い気持ちが空回りしてしまう。1R、強引に出たところへ相手のパンチが当たり、左目の上をカットした。
「シャッターが降りたような感覚になって、距離感が全くつかめなくなりました」
 焦って動きがさらに固くなった。足を使ってリズムを作ることなく、前に出ては相手の距離に入った。互いに頭がぶつかる場面も増え、流血はさらにひどくなった。

 そして4R、血の止まらない大村を見てレフェリーが試合を止めた。傷が悪化したのはバッティングによるものだったため、結果は負傷ドロー。バレンタインデーの再起戦に届けられたのは、チョコのように甘い勝利ではなく、ほろ苦い引き分けだった。

「すぐカッとなって熱くなるのが僕の欠点。平常心で戦えるメンタルの強さが足りない。それを克服してきたつもりだったんですけど、まだまだでしたね」
 倒されても倒されても立ち上がるファイティングスピリッツは折り紙付きだ。ただ、時として強すぎる心は勝負においては両刃の剣となる。心はホットに、かつ頭はクールに。そんなメンタルコントロールも頂点を極めるには必要になる。

 倒されても倒されても立ち上がるというスタイルも、上を狙うには改善の余地がある。レベルが上がれば上がるほど、相手のパンチは強く正確性を増す。倒されたが最後、2度と起き上がれなくなる可能性はゼロではない。
「打たせないで打つのがボクシングでは一番理想なわけさ。そのためにはヒザをうまく使って、パンチを避けないといけない。打つことばかり考えているから打たれちゃうんだ」
 輪島功一ら3人の世界王者を間近で見てきた三迫仁志会長はそう課題を指摘する。性格上、足を使って動き回るアウトボクシングは大村には合わない。ならば、接近戦を挑みつつも、うまく相手のパンチを避ける技術を磨く必要がある。三迫会長はそう考えている。

「野球でいえば、直球しか投げられないんです。それがアイツの良さでもあるんですけどね。変化球を投げられない」
 指導する射場哲也トレーナーは攻撃面での課題もあげる。ただ、やみくもに拳を振るってもテクニックのある上位選手には、うまくかわされてしまう。パンチに強弱をつけ、ここぞという時に仕留める巧さも今後は求められる。

 次の試合は7月6日に決まった。日本タイトル挑戦権を得るためのトーナメント“最強後楽園”で松崎博保(協栄)と対戦する。現在は日本ランク9位だが、2度、日本スーパーフェザー級のタイトルマッチを経験している実力者だ。最初の挑戦では、後に世界王者となった小堀佑介と対戦し、敗れたとはいえ判定まで持ちこんでいる。ここで勝って10月のファイナルも制し、岡田誠一(大橋)の持つ日本スーパーフェザー級のタイトルに挑む。それが現時点で日本王者になるための最短の道だ。

「まずは日本チャンピオンのベルトですよね。その目標を達成しないと、次のステップには進めない。ベルトを獲って、そこからどんな景色が見えるかを知りたいんです」
 一昨年の9月、大村は父を亡くしている。その父が倒れる直前、自宅で見ていたのが大村の試合だった。野球好きの父はすっかりボクシングファンになっていた。
「僕の一番のファンだったんですよ……」
 天国の父にベルトを――その約束を果たすまではグローブを置くわけにはいかない。

「拳道一途」
 好きな言葉を訊ねると色紙に大きく、この4文字をしたためた。自ら選んだ拳の道。それを光り輝くVロードにすべく、大村光矢は今日も一途に自分の拳と向き合っている。 

(おわり)

<大村光矢(おおむら・みつや)プロフィール>
1981年4月2日、愛媛県出身。日本スーパーフェザー級3位。高校を中退後、極真カラテの道へ。全国大会出場も果たすなど実績を残し、2004年に上京。プロ格闘家を目指して、ボクシング技術を磨くため、三迫ジムに入門。そこでボクシングの魅力に惹かれ、05年にプロデビュー。翌年、東日本新人王トーナメントで準優勝に輝く。09年に日本ランカー入りすると、10年9月に日本ライト級王座に初挑戦。5RTKOで敗れるも、本来のスーパーフェザー級での王座獲得を視野に入れている。強靭なスタミナとスピードを生かした突進が持ち味の右ファイター。身長168cm。



(石田洋之)
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