今季から東北楽天の指揮を執る星野仙一には、かつて黒衣がいた。
 その男の名前は島野育夫。中日、阪神で星野を支えた鬼軍曹的な名参謀だ。
 現役時代は俊足、強肩の外野手として活躍し、ゴールデングラブ賞に3度、輝いている。73年には全試合出場を果たし、南海のリーグ優勝に貢献した。
 07年12月、胃ガンのため世を去った。63歳だった。

「(星野楽天に)必要なのは島野のようなヘッドコーチだよ」
 そう語るのは楽天元監督の野村克也だ。
「これまで星野の下には常に島野が優秀な参謀として仕えていた。彼とは南海時代、8年間一緒にプレーしたことがあるんですが、まぁ、これだけ野球を知らない選手はいなかった(笑)。
 主にセンターを守っていたのですが、考えられないようなエラーをする。そこで付いたあだ名が“チョンボの島ちゃん”
“オマエ、何を考えて野球やっているんだ?”と説教すると、“せっかく親からもらったいいもの(俊足、強肩)を自分で食い潰してしまって情けないです”と泣いていましたよ。
 そこから野球について考えるようになったんだろうね。僕がプレーイングマネジャーになった時はバッテリーの配球についても随分、教えましたよ。本人は“そんなこと、全然、考えてもいませんでした”と目を丸くしていたね。
 引退後も私と会うたびに“現在、自分がコーチをやれているのも野村さんのお陰です”と言ってくれました。彼は礼儀をわきまえたいいコーチでしたよ」

 野村の教えを受けたせいかピッチャーのクセを盗む術に長けていた。
 鬼軍曹でありながら選手からの人望は厚かった。
 中日OBの今中慎二が自著『中日ドラゴンズ論』でこう述べている。
<島野さんが優れていたところは、絶妙なバランス感覚です。たとえばミーティングの際に星野監督があまり怒らなければ島野さんが怒鳴りました。
 逆に星野監督が激昂しているときは傍らでじっと話を聞いている。あまりにも怒りが収まらないときにはフォローをしたり、その後怒られた選手に声をかけたりと、場の空気を読むのがとても上手でした。>
<島野さんが星野監督と似ていたことは、ミスしてもチャンスを与えるところ。「ミスしたらその分を練習で取り返せばいい」という考えが徹底していたからこそ、何度も何度も選手を怒鳴りつけたし、特守も選手が泣きたくなるくらいやったのだと思います。
 島野さんはその後、星野監督が阪神に行かれたとき一緒に入団されたことからも分かるように、まさに星野さんと一蓮托生の方でした。>

 45歳でユニホームを着続ける山本昌には、こんな思い出がある。
 96年7月の阪神戦だ。山本は新庄剛志に決勝3ランを浴び、負け投手になった。
「使えんな」
 怒り心頭に発した星野に、あろうことか、こう言い返してしまったのだ。
「ええ、使えませんから」
 この一言が火に油を注ぐ結果になってしまった。
「あんなやつ、やめさせちまえ!」
 ここで助け舟を出したのが島野だった。
<確か次の日からは関東への遠征だった。島野コーチからすれば、僕をやめさせるわけにはいかない。
 かといって、そのまま遠征に同行させるのも無理がある。では、2軍に落とすか? それだとマスコミに知れ渡ってしまい、騒ぎが拡大する。
 島野コーチは僕にこういった。
「あしたの朝、監督の家に行こう。オレついていってやるから、一緒に謝るんだ」>(自著『133キロ快速球』より)
 自宅で山本の顔を見た星野は、何もなかったように、こう言ったという。
「なんか、あったのか?」
 これで一件落着になったことは言うまでもない。
「三つ子の魂、百まで」という。還暦を過ぎたからといって、星野が温厚になることはあるまい。場合によっては鉄拳が飛び出すこともあるだろう。
 そんな時、誰がフォローするのか。誰が励まし、誰が慰めるのか。
 他界してから3年が経つというのに、未だに「島野育夫」の名前を耳にするのは、彼が稀代の名参謀だったからに他ならない。

<この原稿は2011年2月4日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>

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