7月9日、WBA世界スーパーバンタム級王者・下田昭文はアトランティックシティで同級1位リコ・ラモス(アメリカ)との防衛戦に臨んだ。アメリカ本土で日本人王者がタイトル防衛戦を行なうのはこれが初めて。そのおかげもあって、今回のタイトル戦は多くの注目を集めることになった。
 ただそんな歴史的背景よりも、筆者が何より特筆すべきと感じたのは、このファイトが米国最大のプレミアムケーブル局HBOで生中継されたことである。
(写真:まばゆいスポットライトを浴びてリングに向かう下田の姿に興奮したファンは多かったはずだ。 Photo by Kotaro Ohashi)
 アメリカに住み始めて10年以上になるが、世界の好選手を厳選して中継するHBOのレギュラー放送(注)で日本人選手の姿を見るのはこれが初めて。そういった意味で、HBOの放送スケジュールに「Akifumi Shimoda」の名前を見ることは実に感慨深く、そしてエポックメイキングに思えたのである。
(注/HBOのPPVでは今年3月に石田順裕が登場。1興行で3〜4戦が放送されるPPVの前座では無名選手の起用も多い)

 昨今のボクシング界では、世界タイトルの権威失墜が叫ばれて久しい。かつて団体、階級の増加に批判が集まったことなど、現代のタイトル乱発に比べればかわいいもの。今ではWBA、WBC、WBOなどの各団体は1つの階級に複数の王者を認定し、結果的にベルトの価値をどん底まで下げてしまった。

 特にWBAのタイトル安売りは目に余るほどで、中には「スーパー王者」「正規王者」「暫定王者」と3人以上のチャンピオンが存在する階級もある。純粋なパワーランキングを作れば、その階級でトップ10にも入らないような選手が、堂々と「王者」を名乗ることもあるのが現状。そんな状況下では、WBA、WBCなどのベルト保持者が「世界王者」と呼ばれることも少なくなり始めている。
「王者(Champion)」ではなく、単なる「タイトルホルダー(Titleholder)」。「ベルトを持っている者」=「世界最高の男」とは、とても言えないのだから、そんな呼び名の方が実際に相応しいように思えてしまう。

 前置きが長くなったが、つまり現代は「肩書きに惑わされず、ファンの見る目も問われる時代」だということ。そして、そんな中で米国のボクサーにとって分かりやすいステイタスとなっているのが、HBO、ショータイム(SHO)といったプレミアムチャンネルで試合を中継されることなのである。

 特にいわゆるボクシング・ステーションとして名声を築きあげたHBOは、ベルトを持っている、いないに関わらず、「強さ」「試合の面白さ」「将来性」にこだわって中継カードを決定する。結果の見えた世界タイトル戦は無視し、ノンタイトルの好カードをメイン、セミファイナルで中継することはざらにある(今回の下田が登場した興行もそうだった)。豊富な資金を投じ、なおかつ「本物優先」の姿勢を貫くことでプレミアムなステイタスを構築したのだった。
 残念ながらこれまで、日本人ボクサーはHBOのレーダーにはほとんど引っかかってこなかった。中〜重量級重視のアメリカと、軽量級偏重の日本ではマーケットが噛み合なかったのが理由の1つ。同時に実力とエンターテイメント性において、日本のボクサーに高い評価が与えられてこなかったという側面ももちろんあったはずだ。
(写真:HBOに実力を認められたことは胸を張ってよい事実である。 Photo by Kotaro Ohashi)

 日本人に限った話ではなく、マニー・パッキャオ登場以前は、アジア人自体がアメリカのマーケットではほぼ無視された存在であり続けた。かつて全盛期のフリオ・セサール・チャベス、アイク・クォーティらに挑んだ韓国人選手が、まるで力を発揮できなかったこともアジア人軽視の傾向に拍車をかけたのだろう。
 しかしパッキャオ、ノニト・ドネアらの快進撃のおかげで、最近はフィリピン人ボクサーの評価が急上昇。おかげでフィリピンの若手ホープが米国内でデヴューするケースも急増している。そしてそれと同時に、アジアの選手たちに対する偏見が薄れた部分もあったに違いない。

 日本人選手にとっては、今年3月にHBOのPPVに登場した石田順裕が地元ホープを1ラウンドKOで下したことが転機となった。インパクトが大きかった石田の番狂わせで、「日本人もやるじゃないか」と感じたアメリカ国内のファン、関係者は多かったことだろう。
 その後、米東海岸のメッカ・アトランティックシティを舞台にした下田昭文のタイトル防衛戦が決定。「今回の下田は地元ホープであるラモスの相手役に選ばれただけ」という声も中にはある。
 しかし、たとえ「Bサイド」での起用だったとしても、簡単に負けてしまうようなレベルの選手のファイトをHBOが放送することはあり得ない。相当数のフィルムに目を通し、ある程度は下田の力を認めた上で中継が決まったことは間違いなかったはずだ。

 そういった経緯を思えばなおさら、7月9日に下田がラモスに敗れてしまったことは返す返すも残念だった。前半は優勢に進めながら、7ラウンドにディフェンスが甘くなったところに左フックを受け、壮絶な逆転KO負け。
 その数ラウンド前からラモスは左フックのタイミングを掴みかけているように見えただけに、「不運」という言葉は使えまい。しかし少なくとも大きな勝機があるファイトだったことは確かで、千載一遇のチャンスを逃したと言ってもよい。
(写真:優勢に進めながら、ワンパンチでKOされる惜しい敗北だった。Photo by Kotaro Ohashi)

「自分の人生を成功させたいという気持ちは、世界チャンピオンになってからもっと強くなりました」
 試合直前の会見時、下田に「人生をさらに良い方に変えるチャンスですね」と尋ねると、躊躇うこともなくそんな答えが返ってきた。同じことは日本ボクシング界全体にとっても言えたのだろう。HBOで全米中継されたファイトで、下田があのまま優勢に試合を進め、もし劇的なフィニッシュでも飾っていたら、そのときには日本人ボクサーの評価は……。

 ただもちろん、この敗戦で下田をはじめとする日本人ボクサーたちにとっての扉が閉ざされてしまうわけではない。
 アマでも実績のある無敗のプロスペクトに対し、KOパンチを貰うまでの下田は、採点上は大量リードを奪っていた。HBOの放送席からのコメントも好意的なものが多かったと聞いている。

 結果的には完敗なのだから、しばらくは再び実績を積み上げる必要がある。だが、いつか下田がさらに逞しくなったと判断されたとき、HBOに限らずアメリカの放送局は彼を再起用することにそれほど躊躇いはないのではないか。
 また、秋にはWBC世界スーパーバンタム級王者・西岡利晃のラスベガス登場も内定しているという。西岡の一戦がどのテレビ局で放送されるかは未定だが、ある程度名の通った相手(元2階級制覇王者のラファエル・マルケスが有力候補とされる)ならHBOとなる可能性もある。

 そして近いところでは来週23日、山口賢一がメキシコでWBO世界フェザー級王者オルランド・サリドに挑む(WBOは日本未公認で山口も日本では引退扱い)。この一戦も、スペイン語放送のFOXデポルテスでアメリカ国内に生中継される予定だ。山口は本来の挑戦者が負傷した上での代役。こんなところで白羽の矢が立ったことも、日本人ボクサーへの抵抗が薄れた一例として考えられるのかもしれない。

 いずれにしても、これからしばらくは様々な形で日本人ボクサーたちにアメリカ国内で露出するチャンスが来そうな気配がある。HBOでなくとも、それに続くSHO、ESPNなどに登場の機会もあるだろう。そこで力を発揮できれば、さらに大きな舞台にも繋がり得る。
 個人的な希望を言えば、いきなり大一番に臨むのではなく、事前にアメリカ国内で何戦かこなして欲しい。ESPNやSHOは、実力がありながら知名度の低いボクサーたちにショウケースの場となる低予算番組も放送している。

 そこに出ることはチューンナップファイトとしてはリスクが大きいし、金銭的にも国内で興行を打った方が旨味がある場合も多いのだろう。だが、そういった場で力を示しておけば、日本の期待を浴びるだけでなく、米国内でもある程度のリスペクトを受けて「次の段階」に進むことができる。そんな手順を踏むようになったとき、初めて本当の意味で「世界に討って出た」と言えるようになるのではないだろうか。

 WBA、WBCなどのいわゆる「アルファベットタイトル」を獲得するだけでなく、本場のファンからも認められる真の王者へ――。
 7月9日の下田昭文のタイトル戦は、そんなチャレンジの素晴らしさを私たちに垣間見せてくれた。世界最高峰の強者たちが集まる場所に、母国の代表が参戦することの魅力を私たちに教えてくれた。
(写真:対戦相手の質まで含めて内容も問われる再起の道がこれから始まる。Photo by Kotaro Ohashi)

 この新たな挑戦の潮流が、今後も途切れずに続いていくことを期待したい。そしていつか、パッキャオやドネアのように、自国内でだけでなく世界中から愛されるボクサーが日本からも生まれたとしたら……。
 もしも、あなたがボクシングファンなら、そんなシナリオを想い描くだけで、たまらなく興奮してくるのではないだろうか。もちろん現時点では夢のような話ではある。だがパッキャオという一人の革命児が出現するまで、フィリピン人ボクサーがそれを成し遂げることを想像できた人だって、世界のどこにも存在しなかったはずなのだ。



杉浦大介(すぎうら だいすけ)プロフィール
1975年生、東京都出身。大学卒業と同時に渡米し、フリーライターに。体当たりの取材と「優しくわかりやすい文章」がモットー。現在はニューヨーク在住で、MLB、NBA、ボクシング等を題材に執筆活動中。

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