フィナーレの域を超えた羽生結弦の「私は最強」 ~Yuzuru Hanyu ICE STORY 3rd“Echoes of Life” TOUR~
「Yuzuru Hanyu ICE STORY 3rd“Echoes of Life” TOUR」の広島初日公演(2025年1月3日、広島グリーンアリーナ)が3月22日、テレ朝チャンネル2で放送される。
「羽生結弦 notte stellata 2025」が閉幕して約2週間が経過した。Echoes of Lifeとnotte stellata 2025が幕をひいたことで、寂しさを覚えている人は少なくないのではないか。
羽生自身はEchoes of Lifeで自らが演じたNovaを「見送ったな、という気持ちでおります」と千葉公演・千秋楽(2月9日)のアンコールで語った。
Novaには不思議な魅力があった。いろいろな問いと向き合い、悩みながら成長する彼の姿に、愛らしさを覚えた。SNSでは「Nova君」と書き込む人がいたほどである。かく言う筆者もそうだ。Echoes-千秋楽後、「マスディス(Mass Destruction-Reload-)時のNovaの心境は?」と羽生に質問した際、「Nova君」と言いそうになり、少々焦った。
CS放送を前にEchoes-を回想したり、執筆した原稿を読み返したりした。どこか違和感を覚えた。もちろん、ストーリーに関する違和感はない。壮大で素晴らしい物語だった。
筆者はEchoes-について<羽生はメインストーリーで12演目、アンコールで代名詞「SEIMEI」など3演目を披露>と記した。他媒体も<計15曲>という記述のため、私の誤植ではなかった。
映像を見返して、はたと気が付いた。私は「本編12曲+アンコール3曲」/「周回・フィナーレ」という構図で線引きしていた。一般的に後者は、スケーターがファンに向かい手を振りながらリンクをまわる。違和感の正体はここにあった。
ここのところ、羽生は単独アイスショー、アイスストーリーの周回・フィナーレにAdoの「私は最強」を選曲している。
Echoes-での「私は最強」はプログラムにほぼ等しかった。
リンクを1周すると、曲が4拍子から3拍子に変わる箇所がある。歌詞でいうと<〽無理はちょっとしてでも 花に水はあげたいわ>。ここから羽生は小刻みなステップ、ターンを披露した。綺麗なアップライトスピンまでも。公演によってはオープンアクセル、ハイドロブレーディング、レイバックイナバウアーまでやってのける。公演によりけりだが、歌詞に合わせ花に水をあげるしぐさや<〽さぁ 握る手と手>の箇所で手をとる様子も表現した。
これらが美しいのは磨きに磨いた基礎があるからだ。2012年の春、海を渡りブライアン・オーサーコーチとトレイシー・ウィルソンコーチのもとで基礎を改めて見つめ直した。五輪連覇を達成した後の会見で、羽生はこんなことを語った。
「明らかに正しい技術、徹底された基礎によって裏付けされた表現が芸術。それが足りないと芸術にはならない」
話をEchoes-に戻そう。彼は既に15曲を演じたあとに「私は最強」を披露した。体には乳酸がたまっているはずだ。公演の合間にドリンクなどでアミノ酸やブドウ糖を補給しているだろうが、消化吸収が間に合っているかは定かでない。エネルギー源となる筋グリコーゲンや肝グリコーゲンが切れかかっている可能性すらある状態で圧巻のパフォーマンスを周回・フィナーレで魅せるのだ。
プロローグでの「私は最強」は足元で少しリズムを刻み、音に合わせ首を動かす程度だった。RE_PRAYで音にはめたスケーティングを披露し、Echoes-で周回曲の域を超えたように感じた。
体力を絞り切るように滑る彼の姿から「ファンの皆さんが居てくれて、私は最強でいられる」という思いが伝わってくる。プログラムの延長とも言える羽生による「私は最強」は、独特な魅力がある。
(文/大木雄貴)