日米通算106勝27セーブ。実績も理論も申し分ないだけに、将来はいい指導者になるだろうと思っていた。
 まさか、こんな最期を遂げるなんて夢にも思わなかった。何度かヒザを交えて話したことがあるので残念でならない。

 ロッテやヤンキース、阪神などで活躍した伊良部秀輝がロサンゼルス郊外の自宅で、自ら命を絶った。享年42。夫人と別居し、プール付きの豪邸にひとりで住んでいたというのだから「孤独死」だ。
 いったい彼の身に何があったのか。
『日刊スポーツ』によれば、阪神時代の指揮官・星野仙一(現東北楽天監督)の元に電話が入ったのは、今からちょうど1年前の今頃だという。
「泣いていたんだ。どうしても野球を諦めきれない。野球を続けたいと頼み込んできた。テストを受けさせてほしいとも言っていた。ファームの指導者をやりたい、ともな。そうか分かった、とは軽く言えないし。30分くらいかな。話を聞いて終わった」(同紙7月30日付)

 伊良部は2004年限りで阪神を退団後、アメリカの独立リーグや日本の四国・九州アイランドリーグ(当時)でもプレーした。現役に未練を残していたのだろう。
 伊良部が最後に所属した高知ファイティングドッグスの監督・定岡智秋はこう語っていた。
「何より野球に対して真面目ですよ。ロッテ時代のイメージがあるから、もっとクセのある男かと思っていたが、全然違った。病気のこととかもしゃべってくれましたよ。
 はじめて知ったんですが、彼は胸の大動脈瘤になったこともあるらしいですね。でも“免疫ができたから、もう大丈夫だ”と。アメリカの医者がそう言ったらしいですよ。
 ピッチングに関しては実に繊細。ボール1個分の出し入れにこだわっていましたよ」
 定岡も言うように、伊良部ほど繊細な男は他に知らない。それはピッチングのみならず人間関係においてもだ。
 真意が伝わらないと逆上した。幸い、私はそういう場面に出くわしたことがないが、名刺を破り捨てられた記者もいたという。

 忘れられないセリフがある。初先発初勝利とメジャーデビューこそ鮮烈だったが、その後、3試合続けてKOされた。最初は好意的だったニューヨークのメディアの論調も徐々に厳しさを増していった。
「大丈夫か?」と問うと、伊良部は苦笑を浮かべて言った。
「僕だって3回も4回も続けて打たれたら、球場に行くのが怖くて怖くてしょうがないですよ。でも、だからと言って逃げ出すわけにもいきませんからね」
 ポツリと漏らした弱音は、フテブテしいまでのマウンド上の姿には似つかわしくなく、私も苦笑を返してしまった。不器用な生き様が招いた悲劇だったとしたら、これほど痛ましいことはない。合掌。

<この原稿は2011年8月21・28日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

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