篠原颯斗(日本体育大学硬式野球部/徳島県美馬市出身)第2回「野球に夢中となった少年時代」
プロ野球選手を多数輩出した日本体育大学硬式野球部でエースナンバー「18」を背負う篠原颯斗(4年)は、野球エリートではない。生まれ育った徳島で、小中高と全国大会に出場することはできなかった。2003年秋、徳島県美馬市で生まれた身体の大きい子どもは「颯斗」と名付けられた。父・良文は由来をこう説明する。
「『はやと』という読み方は、なんとなく決めていました。漢字は画数などを調べ、スポーツに長けている子になれるように付けました」
父親の願い通り、「颯斗」はスポーツに夢中となった。父・良文の述懐――。
「家にじっとはおらんタイプでしたね。学校から帰ってきたら、近所の友達の家に遊びに行っていた。外で活発に遊んでいました。ただ手がかからん子で、私が叱った記憶はあまりないですね。幼稚園の終わり頃から、幼稚園の近くで少年野球チームが練習しているのを見て、野球に興味を持つようになり、小学1年生になった時には『野球チームに入りたい』と言っていました」
篠原本人の記憶はこうだ。
「小さい頃は外で走り回っていました。基本宿題する前に遊びに行き、近くの公園でよく野球をしていました」
仲の良い同級生に誘われ、地元軟式野球チームの江南パワーズに入団。日々の練習には休まず参加した。
「毎日楽しみにしていたようで、本当に野球が好きなんやなぁと感じましたね」と父・良文。父親と庭でキャッチボールをすることはあったが、「その時は今のようになるとは思いませんでした。ボールを捕るのも最初は下手くそでした」と父・良文が振り返るほどだ。すぐにレギュラーの座を掴むほど、始めてからトントン拍子で進んでいたわけではない。それでも野球を「辞めたい」と家族に漏らすこともなかったという。
「どこまでできるか挑戦したい」
小学5年になり、試合に出始めた頃のポジションはキャッチャーだった。小学6年で身長は170cm近くあった。江原中学に入ってからは主にショートで、時折ピッチャーを務めた。漠然とではあるものの、プロ野球選手を夢見た少年は、北海道日本ハムの中島卓也に憧れた。2年生で4番を任され、県大会ベスト8に入った。
「プロに行くならピッチャーだったと思っていた」と篠原。現在のように投手一本となったのは最終学年になってからだ。エースで1番だった。中学3年間で一番記憶に残っている試合は、県大会予選決勝だという。本人の記憶によれば、サヨナラ負けを喫した。
自身のバッティングでホームラン性の当たりを惜しくも好捕された。9回裏、同点の場面でセンター方向に飛んだ打球を中堅手が飛び込み後逸。タイミング的にはアウトだったバックホームの際にコリジョンルール(本塁での衝突を防止するルール)により、セーフ判定となったのだ。
「自分がカットに入り、ホームに投げていれば結果は違っていたかもしれない。3年間やってきたことに後悔はありませんが、その試合での後悔が残っています」
高校進学は大学進学よりも悩んだという。
「近くの高校で勉強も頑張りながら野球を続けるのか、池田で野球一本に絞るのか。中学校の指導者から『野球をやれるところまでやった方がいいじゃないか』とアドバイスをいただいた。自分としても、どこまでできるか挑戦してみたいと思ったので、池田に行くことを選びました」
篠原が選んだ徳島県立池田高校は、14年春以来、甲子園から遠ざかっていたものの、かつて“さわやかイレブン”や“やまびこ打線”と呼ばれ、一世を風靡した伝統校である。春夏合わせて甲子園3度の優勝経験を持つ強豪で、篠原の挑戦がスタートした。
(第3回につづく)
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<篠原颯斗(しのはら・はやと)プロフィール>
2003年11月24日、徳島県美馬市生まれ。江原南小3年時から軟式の野球を始める。江原中時代は軟式野球部に所属。池田高では1年秋からベンチ入り。3年夏はエースとして、県大会ベスト4に導くも、甲子園出場には届かなかった。日本体育大学入学後は2年春から公式戦デビュー。3年秋には、4勝0敗、防0.40(リーグ1位)とチームのリーグ優勝に貢献し、最優秀投手、ベストナインに輝いた。冬には侍ジャパン大学代表候補合宿に参加した。MAX151kmのストレート、スプリット、スライダー、カーブなどを駆使する右の本格派。身長182cm。右投げ右打ち。背番号18。趣味は映画鑑賞。
(文・写真/杉浦泰介)