篠原颯斗(日本体育大学硬式野球部/徳島県美馬市出身)第3回「池田高校の『1』を背負う矜持」

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 2019年、試合に敗れた美馬市立江原中学3年の篠原颯斗が号泣している姿を見て、「この子と3年間、一緒にやってみたい」と考えたのが徳島県立池田高校の井上力監督だ。井上は池田が1986年に選抜(センバツ)を制した時のメンバー。2016年に母校の野球部監督に赴任していた。

 

 井上は当時をこう振り返る。

「一生懸命投げるその誠実さと、野球に向き合う姿勢に惹かれました。身体もある程度大きかったので、高校生になり、“さらに身体が大きくなれば可能性のある子だな”と感じました。また1番でピッチャーだったのも魅力的でした。私からすると、投げるだけじゃなくて打つ方にも期待されているように見えた。1番ピッチャーというのも当時は珍しかったですからね。伸びる伸びないピッチャーのひとつの指標として、中学生ぐらいまではいろいろなポジションを経験していることや、打っているところや走っているところにも、将来性を感じることがあります。全体的にいいバランスだった。でも一番印象的だったのは、試合に負けた後に号泣していたことです」

 

 背番号1が号泣する姿に何を思ったのか――。井上の述懐。

「負けて泣く選手が珍しいわけではありません。ただ、篠原の場合はものすごい号泣だった。それほど野球に対し、まっすぐ向き合い、この試合に懸けていたんだな、と。それが見ていたこちらにスッと入ってきたものですから、“こんな子まだいるんだ。ぜひ3年間、一緒にやりたいな”と思ったんです」

 

 将来は篠原をエースに――。井上には、その腹づもりもあったはずだ。だが、すべてが指導者の思惑通りにいくなら苦労はない。2学年上に白川恵翔(現・四国アイランドリーグPlus徳島インディゴソックス)、1学年上にも次期エース格の右腕がいた。篠原は最上級生が去った1年秋にベンチ入り。本人の記憶では「3年の冬が終わるまでは普通のピッチャーだった」という。「篠原の場合、やるべきことをきちっとやっていくタイプでしたが、まだまだ時間もかかりそうだった」と井上。大器が花開くには、大地に根を張る時間が必要だったのだ。

 

「井上先生にはよく怒られました」と篠原は言う。井上によれば、篠原が1年の冬、先輩を押しのけてでもエースを狙いにいく気概が見えなかったことで叱ったことがあったという。その発破が効いたのか、冬を越え、彼の最高球速は130km後半を記録するようになっていた。2番手投手として迎えた1年夏の県大会2回戦、生光学園戦で自己最速となる142kmをマークした。その年の秋、篠原はエースナンバー1を背負うまでに成長した。

 

 先述したように篠原本人の感覚では「3年冬が終わるまでは普通のピッチャーだった」と言うように、押しも押されぬエースではなかったのだ。篠原の談――。

「自分を含め、同級生3人がピッチャー。その全員がエースになりきれていなかった。それで監督が野手をピッチャーに転向させた。そこで僕らも危機感を覚えました」

 

届かなかった甲子園

 

 危機感を覚えながら積んできた冬季練習での成果は春に現れた。3年の春を迎えると背番号1は篠原の同級生に。篠原は2番手格の投手が付けることの多い「10」を付けた。春の県大会初戦・生光学園戦で自己最速を5kmほど塗り替える149kmを叩き出した。きっかけは大会前に掴んだという。

「掴んだのは一瞬でした。春大前に、“もうどうしてもダメだ”と思い、コーチにどうしたらいいですかと聞きに行ったんです。それまでは、とにかく上から投げようとしていたんですが、力を抜き、でんでん太鼓の要領で腕が振られてくるようなイメージのフォームに変えました。そうすると、急にバーンッて良くなったんです」

 

 3年夏、篠原は再びエースナンバーを任される。池田の1は特別だという。「池田の背番号1は徳島県の中で一番重い番号だと思っています。その部分では(1を任されて)嬉しい気持ちもありましたが、“ちゃんとやらないといけない”という気持ちにもなりました」。篠原は夏の初戦、阿南高専相手に5安打10奪三振完封勝利を挙げる。スポーツ紙の見出しには<令和の金太郎>の文字が躍った。2回戦の相手は第1シード鳴門。前年秋とこの春、徳島県大会を制している優勝候補が待ち構えていた。

 

「秋と春に鳴門が優勝してたので、そこに勝たないと甲子園はないと思っていました。鳴門が第1シードということもわかっていたので、早めに当たりたかった。鳴門が勢いに乗って当たるよりも、一発目で当たって倒すことで、僕らが勢いづきたかった」
 打倒・鳴門に向けては、井上の戦略もあった。鳴門戦でカギになると見た内角攻めを練習では徹底しながら、鳴門と直接対戦した試合では、打たれるのを覚悟でアウトコース中心の組み立てで戦った。

 

 迎えた鳴門戦はオロナミンC球場で行われた。先発はもちろん背番号1の篠原。5回までに2点を失ったが、慌てなかった。

「その時点で想定通りでした。鳴門からすれば、もっと点数取れるはずと思っていたはず。下に見ているチームに2点しか取れていないことに焦って欲しかった」

 篠原らの思惑通り、6回裏に4点を奪い、試合をひっくり返した。7、8回と加点し、4点リードで最終回へ。篠原は9回に2点を返されたものの、最後まで投げ抜いた。会心の勝利に背番号1は「勝って泣いたのは初めて」と、うれし涙を流した。

 

 10安打を浴びながらの力投、打倒・鳴門を成し遂げた代償は小さくなかった。篠原は右ヒジを痛め、次戦の登板を回避せざるを得なかった。「当時は『エース温存だ』とか言われましたが、実はそうではなく、投げられなかったんです」と井上。それでもチームは勝利し、準決勝へとコマを進めた。

 

 しかし、先発復帰した篠原は生光学園戦で9回を投げ切ったものの、8失点と精彩を欠いた。チームも4-8で敗れた。井上にとっては悔やんでも悔やみきれない夏になったという。
「鳴門戦の後、私も篠原と一緒に病院に行きました。いわゆる水がちょっと溜まっていたような状態でした。彼のヒジから水が出てくるのを直視できなかった。鳴門戦で投げたことの代償だと思ったら、“これだけのことを背負わせてしまった”と、私は自分を責めました」
 私が話を聞いた限り、篠原から井上を恨むような一言は聞かれなかった。彼もまた他責ではなく自責のタイプなのかもしれない。それが池田の背番号1を付けた男の矜持でもあったのだろう。

 

 篠原は夏の大会後、ヒジのクリーニング手術をした。不幸中の幸いにして、夏から秋にかけての間をリハビリ期間に充てられた。プロ志望の篠原。夏の大会前から視察に来たプロのスカウトは数球団いた。だが篠原は、既にプロ志望届を出さないことを決めていた。それはこの夏にケガを負ったことが理由ではなかった。

 

 

(最終回につづく)
>>第1回はこちら

>>第2回はこちら

 

篠原颯斗(しのはら・はやと)プロフィール>

2003年11月24日、徳島県美馬市生まれ。江原南小3年時から軟式の野球を始める。江原中時代は軟式野球部に所属。池田高では1年秋からベンチ入り。3年夏はエースとして、県大会ベスト4に導くも、甲子園出場には届かなかった。日本体育大学入学後は2年春から公式戦デビュー。3年秋には、4勝0敗、防0.40(リーグ1位)とチームのリーグ優勝に貢献し、最優秀投手、ベストナインに輝いた。冬には侍ジャパン大学代表候補合宿に参加した。MAX151kmのストレート、スプリット、スライダー、カーブなどを駆使する右の本格派。身長182cm。右投げ右打ち。背番号18。趣味は映画鑑賞。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

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