バレーボールは「和」を大事にするスポーツ ~川合俊一氏インタビュー~

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 現在、日本バレーボール協会の会長として競技の普及に尽力している川合俊一さん。現役時代の活躍から自身の病、新リーグの展望まで、当HP編集長・二宮清純と語りつくす。

二宮清純: 川合さんがバレーボールを始めたのは中学からと聞きました。そこからトップ選手に上り詰めたわけですから、さぞかし運動神経がよかったんでしょうね。

川合俊一 とんでもない。小学校までは運動など全くやってこなかったし、得意でもありませんでした。ただ、身長が高かったことと、中学校のバレーボール部が強くて、そこに入部したのが幸運でした。

 

二宮: 中学校の指導者は有名な方ですか。

川合: 菊池実さんという方でした。菊池先生がすごいのは、教え子に私を含め日本代表選手が3人(木村憲治さん、嶋岡健治さん)もいることです。しかも、この3人が日本バレーボール協会の会長を立て続けに担っています。

 

二宮: 名伯楽なんですね。

川合: 練習中はすごく厳しいのですが、普段はとても優しい。そして教え方がものすごくうまい。さらに驚くべきことに、菊池先生は日本大学相撲部の出身で、バレーボールの経験がほとんどないんです。

 

二宮: それはすごい。優秀な指導者は、その競技の経験がなくても名選手を育てられるということの証しですね。

川合: だから逆に言えば、どんなに才能のある選手であっても、指導者が良くないとダメなんです。

 

二宮: 川合さんがスター選手の階段を駆け上がるきっかけとなった試合といえば、1983年のアジアバレーボール選手権決勝です。対戦相手の中国に勝てば、翌年のロサンゼルスオリンピックに出場できるという大一番。中国に2セットを先取される厳しい試合展開の中、第3セットの途中で川合さんが投入され、それまでの苦戦が嘘のように流れが変わりました。

川合: あの時、中野尚弘監督に私を出すよう進言してくれたのは、大古誠司コーチでした。私のブロック力に期待してくれたんだと思いますが、「活躍しなかったら、許さないぞ」と言わんばかりの鬼のような形相で、「おい川合!」って呼ばれました(苦笑)。

 

二宮: 当時、川合さんは日本体育大学の3年生でした。

川合: しかも、代表入りしてわずか4カ月。もうビビりまくってコートに入り、とにかく声だけは出して走り回っていたんです。そうしたらチームのムードがだんだん良くなってきた。それでポジションがバックに回り、レシーブもサーブも苦手だった私は、てっきり交代になると思っていたら「そのまま行け」と。

 

二宮: 川合さんの可能性に懸けたわけですね。

川合: それでサーブが回ってきた。「ここでサーブミスしたら殺される」と思って、絶対ミスしないように緩めのサーブを高く打ち上げました。それが空調の気流に乗ってボールが大きく変化し、相手のレシーブが乱れたんです。

 

二宮: それは狙っていたのですか。

川合: たまたまです。12月の寒い日だったので、当時の東京体育館はガンガン暖房をかけていた。体育館の管理者も、日本代表級の選手がまさかあんな緩いボールを打ち上げるとは思っていなかったんでしょうね。それで一気に3セット目を取り返しました。

 

二宮: まさに“ラッキーボーイ”誕生の瞬間だ!

川合: でも、その時は空調の影響だと分からなくて、「気合が入ると、ボールもすごい変化をするんだな」と思っていました(笑)。

 

二宮: 記録を見ると、4セット目以降は、スパイクもすさまじい勢いで決まっています。

川合: 「流れ攻撃」がうまくハマったんです。普通はまっすぐ上にジャンプし、少しでも高い打点でスパイクを打とうとしますが、相手と正対するためブロックされやすくなる。そこでジャンプする時に真上ではなく、斜め上に跳ぶことでブロックをかわそうと思ったのです。今、大人気のバレーボール漫画『ハイキュー!!』にも似たような攻撃がありましたね。

 

二宮: それはずっと練習していたんですか。

川合: はい。セッターの古川靖志さんにお願いして練習していたのですが、コーチからは「打点が低くなるぞ。変なことするな!」と怒られました。でも、「今ならいけるかも……」と思ってやってみたんです。そうしたら大成功で、コーチからも「ドンドンやれ」と。「あんなに怒っていたくせに」と思いましたけど、とにかく勝ちたいからバッカバカ打ち込みました。多分、8割ぐらいは決まっていたと思います。

 

二宮: それが逆転勝利、そしてロス五輪出場につながったわけですね。

川合: 自分史上、一番思い出に残る試合です。

 

(詳しいインタビューは5月1日発売の『第三文明』2025年6月号をぜひご覧ください)

 

川合俊一(かわい・しゅんいち)プロフィール>

1963年2月3日、新潟県青海町(現・糸魚川市)出身。8歳から東京都大田区で育つ。大田区立出雲中学校時代にバレーボールを始め、明治大学付属中野高校、日本体育大学へ進学。83年、ロサンゼルスオリンピック出場をかけたアジア選手権決勝で途中出場し、逆転勝利に貢献した。84年、大学4年でロス五輪に出場。85年の富士フイルム入社後、日本リーグ制覇に貢献するなどスター選手としての地位を確立した。88年、ソウル五輪に出場し、89年に日本代表の主将に就任。90年、インドアバレーボールを引退し、プロビーチバレーボール選手として世界各地のツアーに参戦した。その後、タレントとしてスポーツ情報番組のキャスターや多数のバラエティー番組で活躍。2007年、日本ビーチバレー連盟会長に就任。22年に日本バレーボール協会会長に就任し、競技の普及や五輪に向けた選手強化に手腕を発揮している。

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月刊誌「第三文明」で2010年1月号より好評連載中の「対論×勝利学」は、 二宮清純が一流アスリートや指導者などを迎え、勝利への戦略や戦術について迫るものです。 現場の第一線で活躍する人々をゲストに招くこともあります。 当コーナーでは最新号の発売に先立ち、インタビューの中の“とっておきの話”をご紹介いたします。

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