第279回 エミリオ・ムラカミの視点 ~ホルヘ・ヒラノVol.14~

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 80年代前半のホルヘ・ヒラノについて、2人目の証言者はエミリオ・ムラカミである。

 

 57年生まれのムラカミはヒラノより2歳年上にあたる。ヒラノと共に日本リーグ1部のフジタでプレーした左ウイング、ミッドフィルダーだ。81年シーズン終了後、ムラカミとヒラノはペルーに帰国、翌82シーズンはウニオン・ウワラルでプレーしている。チームの中心は前回、登場した元ペルー代表のペドリット・ルイスだった。

 

「82年シーズン、ウワラルはいい選手が揃っていた。リーグ開幕前、(スポルティング・)クリスタルと練習試合をしたことを覚えている。練習試合といっても観客を入れており、ウワラルは4対0で勝利したんだ。細かいスコアは覚えていないので、4対1だったかもしれない。とにかく圧勝だった」

 

 ペルーリーグの強豪のひとつ、スポルティング・クリスタルにとって地方のクラブ、ウニオン・ウワラルに敗れたことは屈辱だったろう。

 

「フジタから戻ったばかりで、ぼくたちのことを誰も知らなかった。コーキ(ヒラノの愛称)の速さに相手は面食らっていた」

 

 フジタ時代、走るトレーニングばかりであることにムラカミとヒラノは閉口していたが、走り込みにより2人の基礎体力は上がっていた。

 

「コーキはフジタのときはセンターフォワード。ウワラルでは左ウイングだった。左利きのぼくは右ウイングだった。ペドリットは(攻め)上がると戻らない。そこでぼくがボランチの位置まで下がって守備をすることになる」

 

 バランスをとったムラカミ

 

 ボランチである“ファンタジスタ”――ペドリット・ルイスの空いたスペースを埋める役割だ。

 

「クリスタルとはリーグ戦でも対戦して、ペドリット・ルイスがフリーキックを決めたはずだ。コーキもゴールを決めた。それで(クリスタルの)会長がぼくたちを獲得することを決めたようだ」

 

 この連載で触れたように“クラブ”と監督のセサル・クビージャの意向は違っていた。(第276回を参照)

 

「獲得が監督の指示でなかったとは、ぼくたちは知らなかった。クラブに加入したときは、監督はぼくたちを一瞥もしなかった」

 

 クリスタルは4-3-3の布陣を採用していた。

「中盤の3人、ルーチョ・レイーナ、アルフレッド・ケサーダ、ペドリット・ルイスはあまり守備をしない。ぼくが左サイドで出ると、中盤にスペースができてしまうので、下がり気味になる。するとクビージャは“下がるな、下がるな”と叫ぶ」

 

 バランスをとろうとしたムラカミの意図を監督は理解しなかったのだ。

 

 当時のスケジュールは木曜日に練習試合、土日に試合が組まれていた。ムラカミは練習試合には起用されるが、公式戦のメンバーからは外された。

 

「当時のベンチ入りは16人。中盤は3人にも関わらず、レギュラークラスが4人いた。キーパー、ディフェンダーの控えも必要だ」

 

 結果的にムラカミが弾き飛ばされることになった。

「木曜日の練習試合の後、フィジオセラピストのガルシアがぼくに“また外されたぞ”って教えてくれた。その後、クビージャから呼ばれて“次の相手は激しく削ってくるので外した”と説明を受ける。その繰り返しだった」

 

 ペドリット・ルイスはムラカミについて「コーキと同じように足が速くていいシュートを持っていた」と評する。しかし、「優しすぎたこと、そしてpicardia(ずる賢さ)が足りなかった」と付け加えた。

 

 存在をアピールしたヒラノ

 

 83年シーズン、ムラカミの出場機会は限られた。スポルティング・クリスタルはリーグ優勝したが、彼にとっては不完全燃焼のシーズンだった。

 

 翌84年シーズンはヒラノたちが代表招集され、選手が足りなくなったこともあり、出場機会は増えたという。

 

 ヒラノの話に戻そう――。

 

 84年、リーグ開幕前にリマにある国立競技場でペルー代表対ホンジュラス代表戦が行われていた。ヒラノは11番をつけて先発出場している。

 

 ペルー代表の出足は最悪だった。開始7分、ホンジュラス代表が真ん中から右サイドにパスを出した。ペルー代表のディフェンダーはパスをカットして、キーパーに戻す。

 

 なんでもないプレーだ。

 

 ところがこのボールにキーパーの手が届かずゴールの中まで転がっていった。後半終了間際の44分にも中央をドリブルで突破され失点、0対2となってしまう。

 

 後半3分、ペルー代表のペナルティエリアの外、左サイドのフランコ・ナバロにパスが渡った。ナバロの前にディフェンスの選手がついた。ナバロは隣にいたヒラノにパスを渡した。それを見たホンジュラス代表の選手は、ヒラノの足元目がけて滑り込んだ。足が届く直前、ヒラノはふわりとボールを浮かせた。ボールはキーパーの頭上を越えてゴールに入った。ヒラノの代表初得点である。

 

 この後、ペルーはさらに1点を失い、1対3で敗れた。ただ、ヒラノにとってはその存在価値を見せつけた試合だった。

 

(つづく)

 

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。最新刊は、「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」(カンゼン)

代表を務める(株)カニジルは、鳥取大学医学部附属病院一階でカニジルブックストアを運営。とりだい病院広報誌「カニジル」、千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学附属病院がんセンター広報誌「梅☆」編集長。

 

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