第1184回 天覧試合の成功が導いたプロ野球の躍進
ゲームはシーソーのように読売ジャイアンツに傾いたり、大阪タイガースに傾いたりしながら、ついに9回裏まできた。スコアは4対4。タイガースのマウンドには7回途中からルーキーの村山実さんが立っていた。
1959年6月25日。東京・後楽園球場のジャイアンツ対タイガース11回戦は、プロ野球史上初の天覧試合として行なわれた。
ロイヤルボックスの中、天皇皇后両陛下の後ろから試合を観戦していた主催者やVIPの面々は、時計の針が気になって仕方がなかったに違いない。
というのも、宮内庁の通達により、両陛下が皇居を出発するのは午後6時45分、退席時間は午後9時15分と分刻みで決められていたからだ。警備の都合上、これを変更することは不可能だった。
もし9回裏、ジャイアンツが得点できなければ、延長戦に突入し、両陛下は最後まで試合を見届けることができない。後ろ髪を引かれながら、球場を後にしなければならないのだ。
不思議なのは、どういう理由で、退席時間が午後9時15分に決まったかということだ。推測だが、当時の平均試合時間は1時間45分。これに30分を加えると、2時間15分。午後7時開始だと、余程のことがない限り、最後まで見届けられる、と宮内庁や主催者は判断したのではないだろうか。
しかし、野球は筋書きのないドラマである。ON初のアベックホームラン、藤本勝巳さんの勝ち越し2ラン、藤田元司さんの熱投、吉田義男さんのファインプレー、広岡達朗さんのピックオフプレー、村山さんの真っ向勝負……と見所満載で、9回表が終わった時点で試合は2時間を超えていた。
そして、真打ちが登場する。9回裏、先頭打者として打席に入った長嶋茂雄さんは、2-2のカウントから村山さんが投じた内角の真っすぐをレフトポール際に叩き込んだのだ。絵に描いたようなサヨナラ本塁打。
この時、球場の時計は午後9時12分を指していた。両陛下が帰途に就く、わずか3分前である。もしあのタイミングで、長嶋さんのバットが火を噴かなかったら、天覧試合は画竜点睛を欠くものになっていたのだ。
この天覧試合の成功は、2つの意味で、その後のプロ野球の躍進を約束するものだった。ひとつは「権威」の獲得である。両陛下の眼前でのサヨナラ弾は、職業野球と蔑まれた時代からの決別を告げるものでもあった。もうひとつは、「大衆性」の付帯である。この試合の2カ月前には皇太子殿下と美智子さま(現上皇后夫妻)の“ご成婚パレード”がテレビ中継され、家庭用テレビが飛躍的に普及した。淡いカクテル光線の中で躍動する背番号「3」は、自由と平和の体現者であり、豊かさに向かう戦後ニッポンのシンボルでもあった。「昭和100年」の今年、昭和の最大のヒーローが逝った。合掌
<この原稿は25年6月4日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>