第1186回 学ぶべきもの少なくない50年前の「カープの奇跡」

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 今から50年前の1975年、“セ・リーグのお荷物”と揶揄された広島カープが、球団創設26年目にして初優勝を遂げた。

 

 

 広島の悲願達成には、東海道新幹線の延伸が寄与したと言われる。開幕前の3月に岡山駅―博多駅間が開通(山陽新幹線)し、広島駅から新大阪駅までは約2時間、広島駅から東京駅までは約5時間で結ばれるようになった。

 

 新幹線が東京から新大阪までだった時代、広島から東京までは特急と新幹線「ひかり」を乗り継いで約8時間かかった。72年3月に岡山まで新幹線が延伸したが、それでも新大阪までは約3時間半かかった。選手たちは敵と勝負する前に、移動疲れと戦わなければならなかった。それが解消したのだ。

 

 この年、外国人として初めて日本のプロ野球球団の監督に就任したジョー・ルーツは、選手たちの移動ストレスからの解放を好機ととらえ、球団にさらなる負担軽減策を進言した。

 

「彼は球団に直談判し、それまで選手自らが運んでいた野球用具一式を全部スタッフに預け、手ぶらで移動できるようにしてくれた。これが大きかった」とは、この年20勝をあげ沢村賞と最多勝に輝いたエースの外木場義郎。続けて、こうも。「ルーツの改革は、日本人監督にはできなかった」

 

 周知のように帽子とヘルメットの色を紺から赤に変えたのもルーツである。「赤は戦いの色。今年は闘争心を前面に出す」。これが“赤ヘル軍団”の原点だ。

 

 だが選手には不評だった。主力の衣笠祥雄は「正直言って照れ臭かった。帽子の色が赤になった時は、“うわぁ、えらいことになった”と頭を抱えましたよ」と語っていた。

 

 その衣笠をファーストからサードにコンバートしたのもルーツである。前年、打撃コーチを務めていたルーツは、衣笠の俊敏性を買っていた。期待に応えた衣笠はコンバート1年目でベストナインに輝く。ルーツの慧眼の賜物だった。

 

 結局ルーツは、審判団とのトラブルから球団不信に陥り、フロントと衝突、「現場の全権が侵された」ことを理由に、15試合指揮を執っただけで球団を去る。だが「負け犬根性を根本から消し去る」という彼の強い意志と荒療治がなければ、初優勝も、その後の黄金期の到来もなかっただろう。

 

 ルーツを監督に推した重松良典球団代表の胆力についても触れておく。元サッカー日本代表の重松は当時の親会社である東洋工業出身とはいえ、プロ野球界では外様だ。それゆえ「野球の素人が、よりによって外国人を監督にするとは何事か」と厳しい批判にさらされた。失敗すれば首が飛ぶような勝負手を、涼しい顔で指してみせたのだから大したものだ。

 

 抵抗や反発のない改革は、逆説的に言えば改革の名に値しないのかもしれない。3年連続最下位から頂点に駆け上がった50年前の広島の奇跡から、学ぶべきものは、今も少なくない。

 

<この原稿は25年7月2日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>

 

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