第1188回 晩酌でポロリ 鬼軍曹水谷実雄さんの真心
人様に吹聴するほどの趣味ではないが、個人的には気に入っている。みうらじゅん風に言えば、ちょっとしたマイブームだ。
パンデミックの期間中は自粛していたが、最近になってまた再開した。地方での仕事が入ると、繁華街近くに宿をとり、元プロ野球選手が経営している居酒屋を探すのだ。ふらりと暖簾をくぐると、昔見た顔が……。「おお、どうしたの?」。「いや、ちょっと近くで仕事がありまして」。「せっかくだから、ゆっくり飲んで行きなよ」
さる8月10日、心不全のため77歳で世を去った水谷実雄さんが娘婿と営んでいた兵庫県西宮市の焼き鳥屋に足を運んだのは、今から10年前の冬のことだ。
水谷さんは宮崎県串間市の出身で、宮崎商時代には2度、夏の甲子園に出場している。宮崎出身だけあって鳥の味にうるさく、店の壁には自慢の地鶏メニューが並んでいた。
職人気質の選手だった。高校卒業後、広島に入団し、勝負強いバッティングで1975年の初優勝に貢献。78年には首位打者、阪急に移籍した83年には打点王に輝いた。
内角打ちの名人としても知られた。バットのヘッドを投手方向に向ける独特の構えながら、器用に腕をたたんで、内角球を広角に打ち分けた。阪神時代の江夏豊は、山本浩二と衣笠祥雄を打ち取った後、なぜか水谷さんにだけは打たれた。「ジンタ(水谷さんの愛称)とは相性が悪かったんだ」と苦笑していた。
店が一段落すると、水谷さんは焼酎瓶を下げて私のテーブルにやってきた。店名の「だれやみ」は、宮崎の方言で晩酌を意味する。「久しぶりにいっぱいやろうか。ただし大声で話してな。あんまり耳がようないんよ」。そう言って横を向き、私に補聴器を見せた。阪急2年目の84年3月、水谷さんはロッテ戦で左側頭部に死球を受けた。それが原因で三半規管に異常をきたし、翌シーズン限りでユニホームを脱いだ。
水谷さんは酔うほどに饒舌になった。気がつくと手にはバットが。「内角打ちの師匠? あれは女房よ。右打者は内角を打てんことには商売にならん。そこで結婚して間もない頃、女房を衝立代わりにして素振りをした。“もうちょっと寄ってくれ”と言いながらね。ヘッドを立てたまま左ヒジを抜く。極端に言うと、左手の甲をぶつける。この感覚を掴んでから自分のバッティングが固まったんだ」
広島のコーチ時代、この独特の指導法で江藤智、前田智徳らを育てた。近鉄では中村紀洋、中日では福留孝介、井上一樹らの指導にあたった。セ・パ6球団で20年にわたって打撃を教えた。「コーチは選手が上手になる前にやめさせたらいかん。いっぱい稼がせてやらんとな」。それが“鬼軍曹”と恐れられた男の本心だった。今は、ただただ寂しいの一語である。
<この原稿は25年8月20日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>
