野球殿堂入りを果たした元広島の北別府学は鹿児島県末吉町(現・曽於市)の出身である。高校(宮崎県立都城農)までの20数キロの道のりを、毎日、自転車で通っていた。

 北別府をスカウトした村上(旧姓・宮川)孝雄によれば「道といっても当時はまだ舗装もしておらず砂利の上」だった。
 今にして思えば“通学”というよりも“自転車トレーニング”である。これにより足腰が鍛えられ、安定感のあるフォームができ上がったのだ。

 現役時代、北別府がライバル視していたのが巨人のエース江川卓だった。学年は江川が二つ上。北別府が柔なら、江川は剛だった。
 江川は少年時代を静岡県の佐久間ダム近くの集落で過ごした。古河鉱業(現・古川機械金属)に勤める父・二美夫さんの仕事の関係だった。
 遊び場は天竜川だった。向こう岸は崖になっており、そこを目がけて来る日も来る日も小石を投げた。対岸までは100メートルほどの距離があった。

 小石を投げ続けるうちに、やがて50メートルだった飛距離が70メートルになり、ある日、ついに「ガシャン」という心地良い音を聞いた。小石が対岸の崖に届いたのだ。
 いかにして小石を対岸に届かせるか、江川少年は工夫を重ねた。小石に飛距離を持たせるには風に乗せるしかない。指のしなりを利用し、小石にスピンをかけた。江川の「ホップするストレート」はこうした遊びから生まれたのである。

 ドラフト外入団ながら、この江川と巨人のエースの座を巡って激しく争ったのが西本聖である。学年は江川よりひとつ下、北別府よりはひとつ上だった。
 西本は瀬戸内海に浮かぶ小さな島の出身である。父親は漁師。子供の頃から漁船に乗り、漁を手伝った。波間に揺れる漁船でバランス感覚を養った。左足を高々と上げる独特のフォームは、その成果だった。

 このように80年代に活躍したエースは皆、“自然児”だった。

<この原稿は2012年2月6日号『週刊大衆』に掲載されたものです>

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