文末に「。」がないのはプロローグゆえか ~羽生結弦 初単独アイスショー~
年月が経てば、物の見方は変わるものだ。
時の経過の分だけ、経験を積んでいる。だからこそ、同じ「A」という物を同じ人間が見ても、感じ方、気付き、見る角度が変わってくるのだろう。
9月28日に再放送された羽生結弦単独アイスショー「プロローグ」横浜初日公演を約3年ぶりに見て、そう感じた。
“3年前に現地で取材した時と、違って見えるかな?”
期待と恐怖を抱えてテレビの前に座った。
「プロローグ」の再放送を見るのが、少々怖かった。3年前と同じところにしか目が行かなかったら……という不安があった。
初日公演の取材当時、私は新プログラム「いつか終わる夢」の美しさに目を奪われた。羽生のスケーティングや仕草には、切なさ、もどかしさ、ジレンマといった感情表現が詰まっていた。いま現在でも、私の好きなプログラム1つである。
“美しさに目を奪われた”と言えば聞こえは良い。当時の私は、フィギュアスケートのショーをまだ競技として見ていた感がある。だから、新しい物に目がいった可能性がある。なぜならば、わかりやすいから。
羽生がプロデュースするショーやアイスストーリーには至る所に仕掛けが施されている。この3年間で学んだことだ。
3年が経ったいま。「プロローグ」を見直して、違うところに着眼点をおくことができた。今回、私が注目したのは、スクリーンに映し出された後半部分の羽生のメッセージだ。男女混合4人組バンドSEKAI NO OWARIの「サザンカ」が流れる合間に、羽生のメッセージがナレーションと合わせてスクリーンに表示された。
メッセージの内容は、自身のファン、支えてくれた人に向けたものだった。その引用は、敢えてしないでおく。
感謝のメッセージの後、少し間を空けてこう映った。
<僕は、幸せです >
最後の短い一文に句点「。」がなかった。それまでの感謝のメッセージの区切りには句点を使っていたのにも関わらず。
このショーを創り上げた当時だけでなく、この幸せは彼がスケーターとして生きている限り続くもの、ファンがいてくれる限り続くものであり、終わりはない――。私はそう感じ取った。だからこそ、締めくくりや終わりを意味する句点を使わなかったのかもしれない。
あのショーを「プロローグ」と名付けた理由を、句点の無いところでも痛感させられた。3年後のいまである。
(文/大木雄貴)