残り約3カ月に迫ったロンドン五輪。約1カ月後の5月18日には聖火が英国入りする予定だ。現在、“五輪モード”に突入している世界のスポーツ界では激しい代表争いが繰り広げられている。国内では5月5日に選考会を兼ねて行なわれる体操NHK杯、20日にボートロンドン五輪最終予選、そして19日からは女子バレーボール世界最終予選、6月2日からは男子の世界最終予選が行なわれる。4年間の努力を発揮するべく大舞台。そこには笑顔もあれば、悔し涙もある。今月初旬に行なわれた競泳日本選手権でも、さまざまな選手たちの姿があった。
(写真:北島以来となる高校生代表となった個人メドレー・萩野<後方>)
 12年ぶり高校生代表“コウスケ”誕生

 今回の日本選手権では2冠を達成し、4大会連続出場を決めた北島康介(アクエリアス)の完全復活が話題となった。その北島が初めて五輪に出場したのは今から12年前の2000年シドニー五輪。高校3年の北島は日本選手権で日本新記録をマークし、五輪の切符をつかみとった。その年、1学年下の三木二郎も個人メドレーで代表権を獲得し、男子では2人の高校生が世界最高峰の舞台へと挑戦した。

 そして今年、男子では彼ら以来となる高校生の五輪代表が誕生した。個人メドレーで200メートル、400メートルと2冠を達成した萩野公介(御幸ヶ原SS)だ。初日の400メートルでは自己ベストを4秒32更新し、昨年の世界選手権の銀メダルに相当する4分10秒26の日本新記録で優勝した。しかし、大会前まで注目されていたのは同い年の瀬戸大也(JSS毛呂山)の方だった。小学校時代からジュニアオリンピックに出場するなど、将来を嘱望された選手として注目されてきた萩野。2年前の日本選手権では400メートル個人メドレーで2位に入り、同年のパンパシフィック選手権にはチーム最年少の15歳で代表入りを果たした。

 ところが、ロンドン五輪を1年後に控えた昨年、萩野は伸び悩んだ。かわって、台頭してきたのが中学時代から切磋琢磨してきた瀬戸だった。昨年2月の日本短水路選手権、400メートル個人メドレーで当時の日本新記録をマークして初優勝。8月のインターハイで連覇を達成すると、翌月の国民体育大会では高校記録を樹立した。さらに11月には自らがもつ短水路での日本記録を更新と、瀬戸は着実にタイムを伸ばしてきた。そして、この種目には昨年の世界選手権で日本人初となる銅メダルを獲得した堀畑裕也(日本体育大)という優勝候補がいた。萩野は大会前の下馬評では“三つ巴”の中の3番目の位置にいたのだ。

 個人メドレーは、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、自由形と4種目を泳ぎ、その合計タイムを競う。これまで萩野の弱点はバタフライにあったが、そのバタフライを今回は克服したことが、4秒以上も記録を伸ばし、優勝に導いた最大の要因となった。最初の50メートルでバタフライを最も得意とする瀬戸に半身長ほどの差をつけられた萩野だったが、折り返してからの50メートルで追いつき、2種目目の背泳ぎへのターンはほぼ同時だった。そして得意の背泳ぎで瀬戸からトップの座を奪うと、迫る堀畑を折り返しのバサロで引き離した。後半、平泳ぎ、自由形を得意とする堀畑がじりじりと追い上げてきた。だが、いつものような勢いが堀畑にはなかった。それを感じ取る冷静さが萩野にはあった。
「最後に堀畑さんが来ることはわかっていた。堀畑さんは競り合いには強いので、もう最後はもがいて、もがいて、という感じだった。でも、いつもならもっと競ってくるはずなのに、なかなか追いついてこない。堀畑さんも疲れているんだな、とわかって、『これはチャンスあるな』と思っていた」

「予選から調子が良かった」という萩野だったが、それでも日本記録を樹立したことについては「よくても(4分)11秒99がやっとくらいかなと思っていたので、びっくりした」と自身でも予想外のことだったようだ。実は、このレースで萩野は自らが「稀に見る大失敗」と語るほどのミスを犯している。それは、スタートだった。
「もともとスタートはヘタクソだが、今日は相当の失敗。自分でも『ちょっと、下手すぎるだろう』って思うくらい(笑)」
 実際、飛び込んだ段階で萩野は、最初にトップに躍り出た瀬戸に半身長ほど離されていた。だが、決して焦りはなかったという。
「スタートで離されることは覚悟していたので、『焦っても仕方ない』という気持ちで、自分の泳ぎを心掛けた」

 一発勝負という重圧がかかる中、失敗にも全く動揺しなかった萩野。その背景にはレース前にコーチから言われた言葉が大きかった。
「レースを楽しんできなさい」
 この言葉で萩野の重圧がとけ、リラックスして泳ぐことができた。それが伸びのある泳ぎにつながったのだ。
 最後にロンドンでの泳ぎについて訊かれると、萩野はこう語った。
「失うものは何もない。自分は若さが取り柄なので、その若さをいかして積極的に前半から突っ込むレースをしたい」
 12年前、今や世界のトップスイマーとなった「コウスケ」は4位に終わり、表彰台に立つことはできなかった。果たして、萩野はロンドンの地でどんな結果を残すのか。成長著しい高校生スイマーに注目したい。

 届かなかった0.05秒

 一方、五輪イヤーにピークを合わせることができず、五輪出場を逃したのが古賀淳也(第一三共)だ。今や男子背泳ぎの絶対的エースとしてロンドンでメダル獲得を期待されているのが、入江陵介(イトマン東進)だ。今回の日本選手権でも100メートル、200メートルと2冠を達成し、ロンドン行きの切符を獲得している。しかし、その入江と100メートルでエースの座を争ってきたのが古賀だった。ピークは北京五輪の翌年、09年で、その年の世界選手権では100メートルで金メダルを獲得している。今回の日本選手権では100メートル一本に絞り、初の五輪出場を狙った。
(写真:09年の世界選手権金メダリストの古賀は、ロンドンの切符を獲得することができなかった<後方>)

 初日の予選ではトップの入江と0.72秒差で全体の4位だった古賀は、同日の午後に行なわれた準決勝で3位と順位を上げた。そして翌日の決勝戦、下馬評通り、入江がトップでゴールし、ロンドンの切符を獲得した。残る1枠を準決勝を2位で通過した白井裕樹(ミズノ)と古賀が争うかたちとなった。結果、2位争いに勝ったのは古賀だった。だが、タイムは26秒35。派遣標準記録にわずか0.05秒届かなかった。ガッツポーズをする入江の隣で、古賀は掲示板で現実を再度確認すると、天を仰いだ。そして、プールサイドに上がると、プールに向かって静かに一礼をした。

 プール脇に設けられたインタビューゾーンに現れた古賀の表情は、意外にも落ち着いていた。だが、途中からは悔しさがこみ上げてきたのだろう。懸命に冷静さを保とうとする本人の意思とは裏腹に、目からは次々と涙がこぼれ落ちた。
「準決勝でもっとタイムを上げていたら、決勝でももう少し上がっていたと思うが、予選からいっぱいいっぱいの気持ちになっていた。最後まで納得した練習することができなかったし、練習中に逃げたくなったりしたことも事実。そういうところが足りなかったと思う」と敗因を語った。そして、北京後の4年間についての質問に対して、古賀は次のように述べた。
「好き勝手やった時もあったが、この半年間は周りの声も聞き入れながらやってきたつもり。バランスが一番よかったのが、09年だった。その時のような環境をつくれなかったのが、僕の甘かった部分だと思う」

 古賀は自己ベストでは派遣標準記録を大きく上回っている。「自分の実力を出し切れなかったと思うか」という記者からの質問にも「僕はまだまだできると思う」と答えており、今回の結果に納得した様子は全くない。だが、いくら実力があっても、本番でその実力を出し切らなければ何もならない。古賀はそのことも十分に理解していた。
「気持ちで負けていた部分というのはどうしようもなかった。そのことも含めて、今の自分の実力はここまでだったと思う」。そして、自分自身への不甲斐なさをこう表現した。
「最後はうまくまとめられたと思うが、前半を積極的にいけず、そこそこでまとまってしまった。そういう自分自身にはがっかりした」

 一度は世界の頂点にのぼりつめた古賀だけに、そのポテンシャルの高さは間違いなく世界のトップであることは誰もが認めるところだ。そして、彼自身もまだ五輪を諦めてはいない。
「こういう時に投げ出しがちになりやすいタイプだが、それを乗り越えて来年また、金メダルをとってしまうかもしれない。4年後、長いスパンで頑張ろう、と思うかもしれない」
 4年後は今大会で進化を見せた北島と同じ年齢となる古賀。リオでのリベンジに期待したい。

(文・写真/斎藤寿子)
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