工藤壮人は、自分の人生を家族とともに力強く生きた
天国にいる工藤壮人も、目を細めたことだろう。
11月1日、東京・国立競技場で行なわれたYBCルヴァンカップ決勝。工藤は、この日対戦した柏レイソルとサンフレッチェ広島の両方に所属した縁もあって、工藤の愛娘が入場の際にレフェリーエスコートを務めた。粋な計らいだった。
工藤は2022年10月、水頭症によって32歳の若さでこの世を去った。筆者はこの半年前にインタビューできる機会があった。レイソル時代から彼を追い掛けており、オーストラリア1部ブリスベン・ロアーを退団して約半年間の空白期間を経て、J3のテゲバジャーロ宮崎に移籍。開幕2戦目でゴールを挙げるなどさすがの働きを見せていた。ここ最近の紆余曲折がインタビューのテーマであった。
言うまでもなくJリーグを代表するストライカーの一人。レイソルのJ1初制覇に貢献し、2013年には浦和レッズとのヤマザキナビスコ(現:ルヴァン)カップファイナルで決勝ゴールを挙げて大会MVPにも輝いた。日本代表としても4試合に出場している。その後移籍してMLSのバンクーバー・ホワイトキャップスではアゴを骨折する大ケガに見舞われ、帰国後はサンフレッチェ広島、そしてレンタル移籍でJ2レノファ山口へと渡ったが、ストライカーとして思うようにゴールを積み上げられなかった。
2019年シーズン限りで山口を契約満了になり、海外移籍を目指してオーストラリア、ドイツ、チェコ、ポーランドとのクラブに練習参加したものの、色よい返事はなかった。欧州も新型コロナウイルスが急速に広がったため、各国リーグがストップ。チームを探せる状況ではなくなり、3月頭に帰国を余儀なくされている。Jリーグは中断しており、緊急事態宣言下ではJクラブに練習参加を打診することもできない。関係者を通じて母校である日体大柏高校に「ダメもとで」練習参加をお願いした。すると快く受け入れてくれたという。
「感謝しかないですね。サッカーができるってことがどれだけ幸せなことか。サッカー部自体、活動を中止していましたから、部員のみんなもちょうど一からコンディションづくりを始めたので、同じようにそこからやれたのが大きかった」
所属先がないため収入はない。貯金を切り崩しながらの生活であった。妻に支えられ、もうすぐ2歳になる娘の笑顔に励まされ、オファーが舞い込むことを信じて毎日のトレーニングに励んだ。
「家族がいるのに、いつまでも無収入でサッカーをやっているわけにはいきませんからね。年末までにオファーがなかったら、潔く引退しようと思っていました」
ピッチから離れてはや1年。引退を覚悟したところにブリスベンからオファーが届いた。家族と一緒にオーストラリアに乗り込んでのチャレンジ。コロナ禍の変則日程で2020年末から約半年間のカレンダーにおいて途中起用が多く、14試合1得点に終わり契約更新には至らなかった。
無所属に戻った工藤に助け舟を出してくれる人もいた。
サッカーに取り組む子どもたちのパーソナルコーチを始めると、その人柄と分かりやすい指導力もあって口コミで評判が広がり、生徒の数が増えていった。居心地は良かった。しかし一方で、このままじゃいけないという思いが膨らんでいた。
プロのフットボーラーとして勝負を。ピッチに立つことを最後の最後まであきらめてはならないと彼は思った。
「やっぱり娘には自分がサッカー選手だっていうことを見せたいし、うっすらでもいいから記憶に残してあげたい。妻に対しても安心させてあげなきゃとは思っていました」
バンクーバー・ホワイトキャップス時代、初ゴールから4日後の試合で相手GKと激しく衝突してアゴを骨折する大ケガを負った。献身的に支えてくれたのが妻だった。再生手術が施されたアゴは歯茎にボルトを打ってワイヤーで固定するために口を開けることもできず、歯の間から流動食を胃に流し込まなければならなかった。ご飯を出汁で伸ばしてミキサーにかけるなど、手間暇かけて1日10食分を用意してくれたという。彼はそのインタビューでも深く感謝していた。
家族に支えられ、コンディションを整えていく日々。まだやれる、まだ輝ける。その強い思いがあったからこそテゲバジャーロから声が掛かったのだ。
彼はこう言った。
「正直、サッカー人生が思い描いたとおりになっていないのは確かです。レイソルで優勝を経験してクラブワールドカップに出て、海外でやってみたいと思って日本を飛び出したことに後悔などありません。いろんな経験ができているわけですから、こういう人生も面白いなって思いますよ」
工藤壮人は、自分の人生を家族とともに力強く生きた。
小学生になった愛娘は見事にレフェリーエスコートの大役を果たした。パパが見守ってくれていることを、そしてパパの偉大さをあらためて感じたのではないだろうか。