鹿島アントラーズ井畑滋元社長の死を悼む
鹿島アントラーズの元社長、井畑滋さんが亡くなった。73歳だった。
井畑さんはアントラーズの前身である住友金属蹴球団で主にサイドバックとしてプレーした後、引退後は社業に専念して大阪プロジェクト開発部長などを務めた。2008年に鹿島のフロントに入り、2010年7月から7年間にわたって代表取締約社長を務めた。
とても気さくで、チームの取材に出向くといつもニコニコの表情で挨拶に応じてくれたことを思い出す。
井畑さんと言えば、やはり2011年東日本大震災時の対応である。復興対策本部をカシマサッカースタジアム(現在はメルカリスタジアム)にすぐに立ち上げ、選手、スタッフ、職員及び家族の安否確認を急いだ。震災時の話をインタビューしたことがある。
「スタジアム内の部屋は危険なので外に(本部を)つくりましたね。PCや機材を運んで、横にテントを張って、炊き出しのおにぎりも食べられるようにして。安否状況、被災状況の確認を行ないつつ、水対策も必要になってくる、と。地域住民のみなさんにはいろんな確認を済ませてからスタジアムのシャワーを提供できるというアナウンスもしました」
井畑さんは1995年の阪神淡路大震災で被災している。当時、六甲エリアに住んでいたため「六甲山に火の手が上がって、六甲ライナーの橋げたが落ちていくのを見た」という。また住友金属の北陸支社長だった2007年に発生した能登半島地震では復旧活動もしている。迅速な行動には、そういった背景があった。
カシマサッカースタジアムも大きな被害を受けた。屋根の下についてある照明、スピーカーが落ち、客席など多くの箇所が破損した。震災から4日後には被害状況をすべて把握し、スタジアム所有者の茨城県に対してすぐさま応急工事の嘆願を行なっている。「カシマスタジアムは復旧から復興に向かう際、茨城の復興のシンボルでありたい」という告知活動もあって、3月末には県から応急工事の方針が打ち出されている。
中断していたJリーグの再開が4月中旬に決定すると、震災からわずか3カ月後には試合が開催できる状況となった。もし工事が大幅にずれ込めば東京など別の会場でホームゲームを行なわなければならなかった。カシマスタジアムの工事が終わるまではホームとアウェイの日程を入れ替えてもらうなどリーグ、他クラブの協力もあって影響を最低限に抑えることができたのだ。
井畑さんはこう語っていた。
「(応急工事で)カシマスタジアムの開催にこだわったというのは我々の危機意識もあるんです。2002年の日韓ワールドカップに向けて増築工事をしたときにここを離れて、東京でゲームをやりました。入場者数はそのとき増えましたけど、カシマスタジアムに戻ってきたときにお客さんが減ってしまった。代替地で試合をやるデメリットを我々は身をもって経験しているわけです。代替地は試合運営コスト、チーム運営コストも掛かるし、何より選手のモチベーションが違ってくる。カシマでやることがベストなんです」
アントラーズは水戸ホーリーホック、茨城県サッカー協会と連携して「WITH HOPEプロジェクト」を立ち上げ、募金活動、ボランティア活動、被災地訪問など復興支援に力を入れていく。2011年のシーズン終了後、カシマスタジアムは本格的な修復工事が行なわれ、翌3月に終えた。耐震化が強化され、防災拠点としてもシンボルとなる。井畑さんの陣頭指揮があったからこそ、アントラーズはこれまで以上に地域と一体化していった。
井畑さんは言っていた。
「僕の(アントラーズへの)愛着は強いですよ。だって(住金蹴球団時代の)弱い時期からやっていますから。選手として7年やって引退して、会社で仕事をしていくわけですけど、Jリーグができて、チームが強くなっていくのを外から見てきました。今こうやって戻ってきて、地方にあっても勝ち続けていくんだという思いを、常に持っていますよ」
佳境を迎えた今シーズン、アントラーズは井畑さんが社長時代の2016年以来となるJ1制覇に王手を掛けた。選手たちは喪章を着用つけて12月6日、メルカリスタジアムで横浜F・マリノスとの最終節に臨む。