西本恵「カープの考古学」第93回<浮沈を占う3年目のシーズン編その3/鯉、セ界の大海を泳ぎ切れるか>
カープ創設3年目、昭和27年のシーズン序盤は、浮上する気配すらなく、低迷し続けた。1年目は資金不足からくる給料の遅配欠配に悩まされ、2年目のシーズン前には、大洋球団へと吸収合併の危機が訪れた。この時は石本秀一監督の発案で後援会を結成し、会費が集められることで存続の危機を乗り越えることができた。3年目こそは浮上したいと願ったシーズンであるが、カープ苦難の戦いは続いていた。勝率3割を切ったチームの処遇は連盟に委ねるという、“3割規定”の恐怖におののきながらも勝ちきれず、6月戦線に臨んでいた。6月15日のダブルヘッダー第1試合を終えての成績は9勝32敗2分けで、当然ながら最下位。勝率2割1分9厘と、3割には程遠く、海の底に沈むかのような状態だった。
沈没船が儲かるネタに
この時期の日本国は経済活動が盛んになってきていた。儲けるために、鉄くず、糸くずをかまわず再利用して売った。
四方を海で囲まれた日本において、船の引き揚げを商いとするサルベージ会社が求めたのは海に沈んだ鉄の塊であった。戦争が終われば、軍艦や爆撃機などは一切役には立たない。しかし、大きな鉄鋼資源とみれば、別の話だ。対岸の朝鮮半島では戦火が飛び交い、鉄の需要が急速に伸びた時期でもある。当然ながら鉄製の沈没船とて魅力的だった。もともと資源に乏しい日本は、沈没船という鉄の塊に目を向けた。
当時の中国新聞に、鉄の値段が示されている。
<朝鮮動乱の影響を受けて二十六年三月からはスクラップの価格がうなぎ上りに上昇、二十四年には、トンあたり三十円、二十五年には五千円のものが、二十六年には一万円から最高二万円と数倍の高値>(昭和27年5月29日)
沈没船は儲かる——。世界でも上位クラスのサルベージ技術を生かしての挑戦は続いた。
その頃、戦艦大和の引き揚げは早くも断念された。だが、大戦中に輸送艦として、アジア戦線を行き来して大活躍だった嚴島丸の引き揚げを行うこととなった。ボルネオ島のマルス湾に調査団を派遣するなどの試みが続いた。
<調査団は二千万円をかけ、四週間にわたり潜水調査を行う予定>(「中国新聞」昭和27年5月24日)
この時期、嚴島丸の引き揚げは実現しなかったものの、昭和29年には成功している。独立後の日本の技術者らは大海原へ乗り出し、海底に沈む大きな鉄の塊の引き揚げ調査に取り組んだ。
かたや海上では、マッカーサーラインと呼ばれた規制線が、島国日本を包み込んでいた。独立国家として歩み始める中で、規制が解かれたのもあってか、漁業も盛んになり、食卓に魚料理が並ぶようになってきていた。また魚を置いておくことはできないと保管するにも、<入荷ラッシュで市場の冷蔵庫もギッシリいっぱい>(「中国新聞」昭和27年5月8日)とうれしい悲鳴があがった。
広島の食事情が上向く中、広島市で魚の事故ともいえる食中毒が起こった。
<二十七日午後夕刻、江波町(現・広島市中区)の行商人から購入したタイの子を夕食に食べたところ同夜九時頃、両名が苦悶>(「中国新聞」昭和27年5月29日)とある。
一人は亡くなり、もう一人はなんとか一命をとりとめたという。すぐさま広島西署で取り調べが始まったが、どうやら別の魚の子が混入していたというのだ。
<購入したタイの子の中にフグの子が混入していて、フグ中毒によるもの>(同前)とされた。近海での大漁に沸く日々の中で異物混入防止などへの意識が薄かった頃の悲劇であろう。戦後の食事情として、あるものなら何でもありがたく食べた時代であった。南側を瀬戸内海に面している広島県の漁業が盛況になった中での残念な出来事だった。
“沈没寸前”での逆転劇
さて、カープに話を戻そう。セントラル・リーグにおいて、一時期合併が噂された鯉と鯨の戦いはいかがなものであったか——。とりわけ前々年は、カープが最下位の7位であり、大洋ホエールズが6位だった。また、前年においてもカープは最下位の7位で、大洋が5位という、どんぐりの背くらべならぬ、イワシの背くらべともいえる状態であった。
カープにとって、大洋球団との試合は何としても落とせない試合であった。
創設3年目のカープは、シーズン序盤から、低迷していた。特に6月には厳しい戦いを強いられていた。8連敗後、1勝しただけで、さらに3連敗。最下位をひた走り、そこがカープの定位置という様相を呈していた。
6月15日、下関での大洋戦ダブルヘッダーの第1試合を0対1で、接戦の末に落とし、3連敗。6月も中旬というのに、この月はまだ1勝しかできていない。シーズン序盤からの悪い流れを引きずっていた。
こうした中のダブルヘッダー第2戦、広島は新人の杉浦竜太郎を、大洋は今西啓介をマウンドに送った。とりわけ今西の調子が良かったわけではないものの、カープは6回まで1つのフォアボールを選んだのみで、打ちあぐねた。
打てないカープをしり目に、大洋は4回に1点をあげて先制。6回の好機を生かし、3点を加えた。6回を終わった時点で0対4と勝負あったかに見えた。
<簡単に大洋の前に屈するかと思われた>(「中国新聞」昭和27年6月16日)
淡白なカープ打線に7回表、異変が起きた。何をしでかすか分からない武智修のヒットを皮切りに出塁をすると3連打とつながり、1点を返し、なおもチャンスを広げた。ここで大洋は継投策に出る。
ピッチャー交代、高野――。
エース高野裕良の登場に、ホームグラウンドの下関球場は沸いた。
だが、カープ打線は粘る。フォアボールから、ヒットと続いて追加点をあげると、伏兵の紺田周三が、満塁の走者を一掃――。この回だけで、打者11人の猛攻で6点をあげて、試合をひっくり返した。
すぐにカープはエース長谷川良平を投入――。毎回ランナーを出しながらもなんとか抑えた。9回表にはダメ押しとばかり3点を加えて、9対4と勝負を決めた。
やったやったと、久々の勝利を受け止めた。今月2勝目に過ぎないが、喜びはひとしおであった。
試合後の総評は、大洋のここ一番での決定打がでなかったことや、投手継投のまずさをついたものとして、以下のように記されている。
<大洋は広島の先発杉浦を二回にしてノックアウトするなど全般的に押しながら、好機に決定打不足と併殺などで少ない得点にとどまったものの、今西に代わった高野はまったくの乱調であるのに未練を残しすぎたのが敗因であった>(「中国新聞」昭和27年6月16日)
さあ、カープは連敗を止めることができた。この勢いで、次の試合には連勝をと臨みたい。しかし、慢性的な戦力不足は変わらず、高卒ルーキー投手らも息切れをしてきた時期である。いかに浮上をかけた戦いに挑んでいくのか、次回のカープの考古学にご期待あれ。
【参考文献】
「中国新聞」(昭和27年5月8、24、29日、6月16日)、『カープ50年―夢を追って—』中国新聞社(1990)
<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。
(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)