将来、“火の鳥ニッポン”のユニホームに袖を通すであろう選手がいる。皆本明日香、24歳。バレーボールVチャレンジリーグの上尾メディックス所属するウイングスパイカー(WS)だ。バレーボールではWSの選手が、そのチームのエースとされることがほとんどである。皆本は1年目の2010−11シーズンからレギュラーに抜擢され、不動の“エース”としてプレミア昇格を目指すチームを支えている。
 皆本の一番の武器は高さである。身長は175センチとスパイカーとして決して大きくはない。だが、豊かなジャンプ力と、長いリーチを生かし、高さのあるアタックを可能にしている。現在、上尾の指揮官を務める吉田敏明はそんな彼女を「全般的に運動能力が高く、走・跳・守の三拍子が揃っている選手」と評価する。

 上尾に必要だったピース

 皆本は徳島県城南高、筑波大学を経て上尾に加入した。上尾を選んだ理由のひとつとしては「吉田監督の熱意に押されて」と笑う。
 皆本と吉田が出会ったのは、彼女が大学3年生(08年)の黒鷲旗全日本男女選抜大会だ。ちょうど皆本が大きなケガから復帰した時期であり、吉田は当時、プレミアリーグに所属するパイオニア・レッドウィングスの監督を務めていた。筑波大の試合を観ていた指揮官の目に留まったのが皆本だった。
「彼女のプレーを初めて見た時に “攻守に優れた選手だな”と感じました」
 吉田はそう振り返る。

 そして09年、吉田は上尾の監督に招聘される。チームはそれを皮切りに、当時・全日本代表だった庄司夕起らプレミア経験者を多く補強。悲願のチャレンジマッチ(プレミアリーグへの入れ替え戦)出場を果たすための改革を行った。その中で、吉田が新たな戦力として獲得を強く希望したのが皆本だった。
「上尾の指揮を執ることが決まり、真っ先にこのチームには皆本が必要だと考えました」
同年5月、吉田は筑波大の監督に話を通し、皆本に上尾への入団を訴えた。当時のことを、皆本はこう語る。
「その場で即答はできませんでした。ただ、吉田監督と話をする機会が多くあり、その中で“プレミアに昇格するんだ”という気持ちが伝わってきました。それで、徐々に自分も一緒に頑張ろうと思うようになっていったんです」

 10月、皆本は上尾に加入する意思を吉田に伝えた。
「チームに必要な選手が来てくれた。本当に嬉しかったですよ」
 こう語る吉田の表情は明るかった。そして、吉田が皆本をどれだけ必要としていたかは、まだ加入内定の時期だった09−10シーズンから既に、彼女を起用したことからもうかがい知ることができる。

 いきなりの抜擢に本人はプレッシャーを感じなかったのか。
「与えられたポジションもレフトだったので、とにかく、大学の時と同じように、思い切りプレーすることを心がけていました」

 そのシーズン、チームは準優勝し、入れ替え戦であるチャレンジマッチに進出した。相手はトヨタ車体クイーンズ。この大事な試合でも、ルーキーながら皆本は途中出場からコートに立ち、持ち前の高さを生かして得点を決めた。結果は2試合を行って1勝1敗としたものの、セット率で相手を上回ることができず、上尾のプレミア昇格はならなかった。
 皆本は「相手はサーブ、スパイク、ブロック……ひとつひとつのプレーが丁寧で、洗練されていました。チームにもまとまりを感じました。その差が敗因だったと思います」と完敗を認めた。

 だが、昇格を逃したものの、監督の吉田にとっては自身が獲得を熱望した皆本の実力が、十分通用したという大きな手応えをつかんでいた。
「来季(10−11シーズン)も使えると確信しました」
 そして、指揮官の予想を後押しするかのように、皆本にある転機が訪れる。

 自分を知った代表活動

 10−11シーズンが始まる直前の9月、皆本は全日本B代表に選出され、アジア杯に出場することになったのだ。同代表には将来の日本を背負う有望な選手が選ばれる。当時のB代表には、石川友紀や位田愛(ともにJTマーヴェラス)など、すでに全日本A代表にも選出されているプレーヤーもいた。
「同世代や下の年齢の子もいましたが、どの選手もレベルが高かった。そんな選手たちに負けないようにと、自分のモチベーションも上がりましたし、一日一日の練習も実になることが多かったですね」

 なかでも、安保澄監督(現女子A代表コーチ)の指導に大きな影響を受けたという。チーム練習後、マンツーマンで自身のスパイクのフォームをカメラで撮影し、問題のある箇所を指摘された。最初はキャッチボールのフォーム、次はスイングの速さ、インパクトの強さなど、細かい技術をひとつひとつ確認していった。
「上尾ではどうしてもチームが最優先になります。でも、代表では、自分自身のことを考える時間がたくさんありました。安保さんが1つ1つビデオを見ながら指摘してくれたので、自分の技術の現状をよく知ることができました」

 修正の内容は、「スパイクを打つポイント、スパイクスイングのかたち、それらを実行するための助走のとり方」など、基礎的なことだった。「私にとっての、スパイクを打つベストポイントがわかったことは大きかったですね」と皆本は振り返る。そして、特訓の効果は早くもアジア杯で表れた。ベスト4進出を果たした日本において、チーム3位の51得点をマークし、アジアの強豪相手にその実力を発揮した。

 さらにアジア杯では、大きな課題も見つかった。現在も課題としているサーブレシーブの精度である。学生時代にも全日本ユースやユニバーシアード代表として、世界と戦ったことはあった。しかし、アジア杯での相手は正真正銘のナショナルチームだ。そのレベルの高さは今までとは大きく違っていた。
「海外のチームの強くて速いサーブにはとても苦しめられました。私はポジションがサイドなので、前衛でも後衛でもキャッチ(サーブレシーブ)してから攻撃に参加します。それが、アジア杯ではキャッチで崩されることが多かった。“まだまだだな”と感じましたね(苦笑)」

 ただ、課題を見つけることも収穫のうちだ。アジア杯を終えて上尾に戻った皆本にはある変化が見てとれたと吉田は明かす。
「代表に行って急激に伸びた部分はありませんでしたが、サーブレシーブに対する意識というか、集中力が高くなったと感じますね」

 本人もアジア杯の経験は有意義だったようだ。
「上尾のチームを離れて、みんなには迷惑をかけたと思います。ただ、世界と戦ったことで、自信がつきました。シーズンが始まる前にこういった経験をできたことが1年目につながったと感じています」
 こう語るとおり、その年の彼女は目覚しい活躍を見せた。

 迎えた10年11月27日、皆本は開幕戦(大野石油戦)にレフトでスタメン出場。この試合で、チーム2位の16得点をマークし、開幕戦白星に貢献した。これで勢いに乗ったチームは、開幕から8連勝を飾るなど他チームを圧倒。翌年3月の東日本大震災の影響でリーグが中止に追い込まれ、暫定ではあったものの、19勝1敗という驚異的な成績でチャレンジリーグ初優勝を果たした。本来なら2年連続のチャレンジマッチ出場となるはずだったが、震災の影響で同大会も中止。皆本にとって、加入1年目でのプレミア昇格はかなわなかった。ただ、彼女は充実感を得ていた。
「1年目は思い切りプレーできました。というより、そうしなければならない立場だったと思います」
 2010−11シーズン、スタメンでは皆本が最年少だった。そのため、余計なことを考えずにプレーできたという。結果として、皆本は20試合中19試合に出場。総得点、ブロック決定本数ら4部門でチャレンジリーグトップ10入りを果たすと、同リーグの最優秀新人選手賞に輝いた。

「シーズンを通していいプレーができたと思います。コンディションも崩れることがなかったですし、自分の思いどおりにプレーできましたね」
 ルーキーとして、またエースとして臨んだシーズンは、順風満帆といえるかたちで幕を閉じた。

(第2回につづく)

皆本明日香(みなもと・あすか)
1988年2月、徳島県生まれ。城南高、筑波大を経て、2010年、Vチャレンジリーグの上尾メディックスに加入。小学5年からバレーを始める。中学3年時には徳島選抜としてJOC杯に出場。高校時代には春高バレーに2年連続出場を果たし、全日本ユース代表にも選ばれた。06年、筑波大へ進学。大学2年時に左ヒザ前十字靭帯を断裂するも、約半年のリハビリ期間を経て復帰。4年時にはキャプテンとしてチームを関東リーグ、全日本インカレ制覇に導く。09年に上尾へ加入が内定。09−10シーズンは内定選手としてリーグ戦を経験した。正式加入後の10−11シーズンでチャレンジリーグ最優秀新人選手賞を獲得。昨季は同リーグ敢闘賞を受賞した。ポジションはウイングスパイカー(レフト)。豊かなジャンプ力と長いリーチを生かした高さのあるスパイクが武器。身長175センチ。背番号16。



(鈴木友多)
◎バックナンバーはこちらから