「ボクシングの殿堂」、時に「プロレスの聖地」として格闘技ファンに愛され続ける後楽園ホール(東京・文京区)が今年、開場50周年を迎えた。
 東京ドームシティ内「青いビル」の5階にある後楽園ホールは決して大きな会場ではない。立ち見も含めて最大収容数約2000人。よって、テレビ中継で高視聴率をマークするようなビッグマッチが行なわれることは少ないが、どの席からでもリングがよく見えるのがよい。また、刻まれた歴史が醸す独特な雰囲気を味わえるスタジアムでもある。
(写真:多くの名選手がこのリングに立ち、記憶に残る好勝負を繰り広げてきた)
 開館したのは1962年(昭和37年)1月15日。プロボクシングのこけら落とし興行は『ダイナミックグローブ』(4月16日)で、メインマッチは高山一夫vs.オスカー・レイス(フィリピン)のノンタイトル戦だった。
 いま私は45歳。後楽園ホールよりも5歳若いので当然、開館当時の試合は観ていない。しかし、高校生の時に初めて訪れて(最初に観た試合は、プロボクシング日本ジュニア・バンタム級タイトルマッチ、渡辺陸奥雄vs.勝間和雄/84年5月3日)以降、何百回と後楽園ホールへと足を運び、数え切れないほどの試合を観てきた。

 プロレス、ボクシング、キックボクシング、シュートボクシング、修斗、DEEP、K-1、サンボ、骨法、プロ空手……。仕事ではあるが後楽園ホールへ通うのが日常生活の一部となっていたように思う。

 先日、後楽園ホール50周年が酒の肴になった時、20年来の取材仲間から、こんな風に聞かれた。
「後楽園ホールのベストバウトは何だと思う?」
 その問いに対して、考えたり、振り返ったりする時間は必要なかった。

 私にとっての後楽園ホール・ベストバウト……それは、89年1月22日に行なわれたプロボクシング日本ジュニア・フェザー級タイトルマッチ、マーク堀越vs.高橋ナオトである。もう20年以上前の試合であるが、ビデオテープを再生すると、いまでも心が震える。

 当時、格闘技雑誌の記者だった私は、弱冠19歳で日本バンタム級王者となった高橋に注目し、取材を重ねていた。しかし、高橋は思わぬ伏兵に敗れ、王座転落。再起戦も惨敗。もうここまでか……と思われた崖っ淵から這い上がり、再び日本王座に挑戦する機会を得た。

 チャンスではあったが、高橋にとって、あまりに危険な闘いに思えた。
 相手のマーク堀越は元米軍兵士で本名マーク・ブルックス。WBA同級世界ランキング6位で6連続KO防衛中。ほとんどの関係者が、戦前には「マーク有利」と予想していたのだ。

 だが、試合は思わぬ展開になる。
 倒し、倒され、また倒し……激しいダウンの応酬の末に高橋は9ラウンド、意識が朦朧とするなかで放った逆転の右カウンターでKO勝利を収めたのだ。

 満員となった後楽園ホールが揺れていた。
 試合の経過を細かに書く必要はないだろう。まだ、この試合を観たことのない人には、是非、どこかで映像を手に入れて観てもらいたい(編集部注:YouTubeで視聴可能)。ダウンの応酬があって試合が派手だから感動したというものではない。技術云々の話でもない。

 この試合を観る中で、高橋からだけではなく、マークからも「勇気」を感じずにはいられないはずである。まるで劇画のようだった。彼らは互いに、自らのカラダが破壊されることを恐れず、一瞬の逆転チャンスに賭けて闘ったのである。

「あなたは、ここまで強く気持ちを持てますか?」 
 観る者が、そう問いかけられているような試合だった。

 試合が終わっても、後楽園ホールのどよめきは消えなかった。誰ひとり席を立って帰ろうとはしなかった。私も、その場から動けなくなっていた。
 取材活動を始めて27年、いまも私は月に何度も後楽園ホールを訪れる。心のどこかで、あの20数年前の心の震えを、もう一度味わいたいと願いながら。

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近藤隆夫(こんどう・たかお)
1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等のスポーツ番組でもコメンテーターとして活躍中。著書には『グレイシー一族の真実〜すべては敬愛するエリオのために〜』(文春文庫PLUS)『情熱のサイドスロー〜小林繁物語〜』(竹書房)『キミはもっと速く走れる!』(汐文社)ほか。
連絡先=SLAM JAM(03-3912-8857)
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