広島カープの代走・中東直己は、自軍の三塁側ベンチに帰る時、三塁側スタンドが異様な沈黙に包まれていることに気が付いたはずである。それは不穏な中に怒気を含んだ、観客の沈黙であった。中東の表情も明らかにこわばり、青ざめていた。少し古い話になる。場所はQVCマリンフィールド。6月13日の千葉ロッテ−広島戦のことだ。
 試合を振り返っておこう。広島先発・野村祐輔が4回裏につかまって3失点。ロッテ先発・グライシンガーが好投し、3−0のまま、8回表を迎える。さすがパ・リーグの首位ロッテ、あっさり完封勝ちか、という雰囲気が濃厚だった。
 さて、8回表。広島1死一、二塁と攻めたところで、ロッテの西村徳文監督は、投手を益田直也にスイッチ。この交代で、試合の様相が一変する。益田はあろうことか、続く天谷宗一郎に四球を与え、あっという間に1死満塁の大ピンチを招いてしまう。ここで、カープ野村謙二郎監督は、待ってましたとばかり、代打・前田智徳をコール。その瞬間、三塁側スタンドの興奮は、一気に最高潮に達した。

 現在、下位に低迷する広島の試合にあって、最もスタンドが興奮し、期待をするのが、この「代打・前田智徳」のシーンである。時に「天才」とも称されたこの名打者の23年間の苦悩の歴史が、41歳となった今、たった1打席に凝縮される。それを目撃する喜びを、誰もが知り尽くしているのだ。
 前田は渾身のスイングでセンターへ犠牲フライを打ち上げ、1点返して3−1。
 7回までは、グライシンガーの完封か、あるいは9回クローザー薮田安彦につないでの完封リレーかもしれないが、いずれにせよ、ロッテが手堅く完勝する、何の起伏もない試合になることが、ほぼスタジアム全体に予感されていた。しかし、前田の犠牲フライが出た時点で、これは逆転劇が起こる、と少なくとも三塁側スタンドは確信に近い空気に一変した。これが今の前田智の力である。打席に立つだけで球場という空間全体を変えることができる。この確信は、少しずつ現実に近づいていく。続く梵英心がライト前タイムリーで3−2。薮田もさすがに後続を打ち取ってチェンジ。

 さて9回表。1死から石井琢朗が内野安打で出塁し、代走・中東。ここからが冒頭のシーンである。打席には、注目の3年目、堂林翔太。外角のストレートを叩いた打球は、まずライナー性で右中間からセンター方向に飛び、途中から加速して上がっていく。センターオーバーのホームランか、入ったか、とスタンドは興奮のるつぼと化す。打球はわずかにスタンドには届かず、フェンス直撃の大二塁打となった。
 あー、残念、同点止まりか、と誰もが興奮を抱えたまま走者に目を移した瞬間である。代走・中東は、なんとまだ三塁を回るところだったのだ。ホーム突入も、悠々のタッチアウト。興奮のるつぼは、一気に沈黙と化した。しかも、根源的な怒りを含んだ、重い沈黙である。

 中東は何をしていたのか。
<二塁ベース付近でその行方を見守り、打球がグラウンドに転がったところでスタート。本塁を狙うタイミングではなかったが、三塁コーチの緒方野手総合コーチの手はぐるぐる回った>(6月14日付デイリースポーツ、電子版)
 中東は、センターが捕るかどうかわからないのでハーフウエーにいた、ということではないと思う。途中で加速して伸びていく堂林の見事な打球に、思わず見とれていたのではないか。全ての観客と同様に、入るかどうかを見守るために。しかし、彼は代走という列記としたフィールドプレイヤーである。スタンドで観る人ではない。あの当たりでホームに返ってこなくてどうする。

 スタンドの重い怒りは、まずはそういう野球のごく常識的な感覚を、今のカープが実践できなかったことに向けられている。さらには、ロッテ西村監督が投手交代を決断した時点で、試合の流れは明確に、完封から逆転に変わったのである。それを証拠立てるかのように、堂林のセンターオーバーが出た。ここを捉えれば、逆転ができる。そういう当然の感覚を、わざわざ手放してしまうチーム状況に対してである。この絶望は、根深い。
 そうですね。ちょうど、多くの皆さんが現在、民主党、ひいては日本の政治全体に見てとっている絶望や怒りと、質において、よく似ているかもしれない。二大政党だの政権交代だの、さんざん喧伝されたけれども、気づいてみれば、民主党政権なんだか自民党政権なんだか、要するに、選択肢とか政治のオルタナティブの可能性を事実上、奪われていくことへの、根源的な怒り。

 試合に戻る。中東憤死の後、実は、丸佳浩が四球を選び、続く小窪哲也がタイムリーを打って、3−3の同点になった。まだ、逆転の流れは残っていたのである。
 で、延長10回裏のこと。このまますんなり終われば、ギリギリ3時間半ルールに間に合って、11回までいけるかもしれない。まだ、引き分けではなく逆転の目がある……と三塁側スタンドは期待していた。なにしろすでにロッテのクローザー薮田を打ち崩したのだし、広島にはまだクローザー・ミコライオが残っている。11回に行けば、利は我にあり! と思っていたら、なんと簡単なライトフライを、あろうことか、丸が落球してしまう。信じられないようなボーンヘッドで走者を許してしまった。何が原因かは知らないが、これで、10回打ち切りがほぼ確定してしまった。

 試合後、広島カープ側のコメントは、概ね「負けなくてよかった」「よく引き分けにもちこんだ」という主旨のものだった。評論家のコメントも新聞の論調も同様である。
 これは、観る側の感覚とは、大きな落差がある。誰もが中東の走塁にも丸の落球にも、怒りにとらわれ、失望していた。最も深い怒りは、絶望である。そう思い知らされたのだ。

 野球と政治を同列に論じることはできない。ただ、怒りの質は論じ得る。スタンドの観衆の怒りが否応なく絶望を伴ったのは、その怒りがまるでフィールドに届いていないからだ。例えば、東京電力福島第一原発事故を検証する国会事故調査委員会は、5日、最終報告書を衆参両院議長に提出し、原発事故は「自然災害でなく人災」と断定した。この精神は、では、果たして東電や政府に届くのだろうか。我々が日々、身をもって経験している怒りもまた、政治に届いていないのではないか。こうは言えるだろう。少なくとも野球においては、もし、この怒りを共にできる選手や首脳陣がいれば、チームは強くなるだろう。
 人は、年をとると、この種の「届かない怒り」を諦める。組織とか、権力なんて、そんなものだよ、と。それを、仮に老いと呼ぶならば、そこに希望を見出そうとするのが、若さである。
 
 最後に、希望を語りたい。中東はなぜ堂林の打球を見てしまったのか。それは、実に鮮やかな軌道を描く打球だったからである。
 例えば、天性のホームラン打者の打球は、最初から45度に近いような、高い軌道で舞い上がり、大きなアーチを描く。現役では中村剛也が典型だし、例えば田淵幸一がそうだった。
 堂林は本質的には中距離ヒッターである。だから、会心の当たりは、ライナー性となって出ていき、そこから加速して、オーバーにいえばジェット機の離陸のように上がっていく。これが、観る者を引きつけるのだ。

 現在の日本野球で、代表的右の強打者といえば誰になるのだろう。中村剛也、内川聖一、小久保裕紀、長野久義、坂本勇人、中田翔……。あくまで可能性として、堂林には彼らに伍していくだけの潜勢力がある。あわてて付け加えれば、もちろん、まだまだ克服すべき弱点も目立つのだが。
 あの8回のセンターオーバーは、いわば、彼が「スター誕生」のきっかけをつかんだ瞬間を告げる美しい打球だったのかもしれない。
 それを希望ととらえることで、未来が見えてくるはずだ。もちろん、あの怒りの行方についても、問い続けなくてはならないのだが。


上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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