大学女子バレー界屈指の名門――。皆本明日香がVプレミアリーグのチームからの誘いを断ってまで選んだ進学先は筑波大学だった。筑波大女子バレーボール部は、全日本バレーボール大学男女選手権大会(全日本インカレ)で5度(当時)の優勝を誇る。皆本はなぜ大学進学、そして筑波大を選んだのか。
「まず、進学を決めた理由として、高校を卒業して実業団に入ったとしても、現役引退後のこと考えたら、大学には行っておいたほうがいいと思ったんです。そして、高校進学のときと同じように、バレーだけのために大学に行くのではなくて、しっかりと勉強もしたかった。“国立大学は勉強ができる環境がある”というイメージがあったんです。その中で“国立で大学バレーのトップレベルはどこだろう?”と考えた時に、“筑波だな”と」
 実は高校3年の夏、皆本は筑波大の練習見学に参加していた。城南高校バレー部の監督が筑波大OBということがきっかけだった。この時に見た練習環境や学習環境の充実ぶりも、進学の決め手となった。自ら導き出した進路先の筑波大で、皆本は大きく成長することになる。

 男子のような女子選手

「男子みたいなプレーをする選手だな」
 筑波大女子バレー部監督の中西康巳は、皆本の第一印象についてこう語った。この中西こそ、皆本が「最も影響を受けた指導者」と語る指導者である。
 高校選抜や全日本ユース代表などに選ばれていたこともあり、中西も「皆本明日香」という名前を耳にはしていた。ただ、皆本のプレーを初めて見たのは、筑波大バレー部に入部してからだった。その時の印象が“男子のような女子選手”だったのだ。

 高い身体能力を活かした皆本のプレーは、すべてがパワフルだった。なかでも、中西は彼女の体全体を使ったパンチ力のあるスパイクに驚かされたという。そんな皆本の能力を見た中西は、彼女にセンター(ミドルブロッカー)からウイングスパイカー(WS)へのコンバートを指示した。

「センターはいわゆるクイックと言われる低くて速いトスを打つことが多い。一方でWS、特にレフトは、軌道が大きく、ゆっくりとしたテンポのオープントスを打つ場合が多いんです。高校時代の皆本は、ポジションこそセンターでしたが、オープントスを打っているケースもあったようです。それもあって、レフト、要するにエースとして育てたいと思ったんです」
 
 皆本は中高ではチーム内で最も高身長であったがゆえに、センターのポジションを務めた。ただ、中西が語ったように、スパイクはWSの打ち方だった。その意味で、皆本は自分に適したポジションを手にしたといえる。実際、新入生ながら春季リーグからワンポイントで起用された皆本は、着実に試合経験を重ねていった。また、WSは、サーブレシーブやレシーブなど、ディフェンス面も重要視される。中西は「皆本はWSになったことで、持ち前の攻撃力に加えて、守備力もレベルアップしました」とコンバートの効果を語った。

 2年になると春季リーグからレフトのレギュラーとして定着。秋季リーグも主力として活躍し、優勝を目指すチームを支えた。ところが――。順調にステップアップを果たしているかに思えた皆本に、バレー人生最大の試練が訪れる。

 エースゆえの負傷

 それは2007年の関東大学1部秋季リーグの試合中に起きた。筑波大は予選リーグの上位4校で優勝を争う決勝リーグに進出していた。初戦で迎えた青山学院大学戦で、皆本はスタメンとしてコートに立った。試合は一進一退の攻防が続き、その一場面でラリーが続く中、3本連続で彼女にトスが上がった。その3本目、少しネットから離れたトスを無理に打ちにいった皆本は、体が少し左側に傾いた体勢で着地した。そして、そのままコートに倒れこんだ。「え!?」。次の瞬間、自分の左ヒザが外側に曲がっていた。
「よく腱が切れると音がすると聞いていましたが、私も聞こえました。もう“グリグリっ”という感じでしたね」

 一人で立ち上がることもできない皆本は、担架でコート外に運び出された。その光景を目の当たりにした中西は「やってしまった……」と天を仰いだ。
「もう見た目からして、ヒザを痛めたことがわかりました。元々は筋力のある選手ですから、単発で“せーの”とスパイクした時はケガをすることはほとんどありません。ただ、あの時はラリーという連続した中で、かつ万全ではない体勢で跳んでしまったんです」
 診断の結果は左ヒザ前十字靭帯断裂。すぐに手術を行ったものの、全治約6カ月を言い渡された。皆本にとって、競技人生初の長期離脱となった。

「初めての大ケガだったようですので、やはり、ショックを感じていましたね」
 中西は病院のベッドで横たわる皆本の様子をこう振り返った。そして「どうにか気持ちを立て直してほしい」との思いで、セルフコントロールについて書かれた書籍を数冊、手渡した。また、ある雑誌に載っていたリハビリについての資料も渡したという。そこには、皆本と同じようにヒザの腱を断裂した選手のリハビリ内容が記されていた。

「しっかりとリハビリをしていけば『必ず競技に復帰できる』と思わせたかったんです。また、私は長い指導者生活で皆本のように、ヒザの腱やアキレス腱を断裂した選手を何人も見てきました。そして、それらの選手たちが苦しい時期を乗り越えた時に、一回りも二回りも成長する姿もまた目撃してきました。皆本にもそうなってほしかった。ただ、言葉だけでは単なる慰めになってしまいますので、具体的な事例が載った本や資料を渡したんです」

 恩師の親身なサポートに皆本も気持ちを切り替え、退院後は長いリハビリ生活を耐えた。東京在住のトレーナーに師事し、まずは歩くことからスタートした。そして、太ももの内転筋を鍛えないと左ヒザは使い物にならないだろうと医師から言われたため、徹底的に下半身の強化に努めた。
「リハビリの一環で自転車を使うのですが、ケガをしてから初めて自転車に乗った時は嬉しくてはしゃぎました(笑)」
 一日でも早くバレーがしたい。その一心でリハビリに取り組んだ結果、皆本の心と体にある変化が起きていた――。

 心身ともにレベルアップしたエース

 左ヒザ前十字靭帯断裂から約半年後の08年4月、皆本は練習に復帰。筑波大の体育館に、力強いスパイクを打つエースが戻ってきた。復帰した皆本を見て中西は「靭帯や腱のケガをした選手は、どうしてもジャンプ力が落ちてしまうものですが、彼女は違いましたね」と身体能力が落ちていないことに驚いたという。それどころか、最終的にケガをする前よりジャンプ力は増していた。復帰のために徹底して行った下半身強化が、彼女をパワーアップさせていたのだ。

 5月には、早くも黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会の初戦で実戦復帰を果たした。だが、試合では半年前のケガをした瞬間がフラッシュバックし、皆本の真骨頂である力強いプレーは影を潜めた。「もう……恐くて全然ダメでしたね」と本人は重い口調で振り返った。その一方で「試合に出られることは、本当に嬉しかった」とも明かした。その後も、ケガの恐怖心で思うようなプレーができなかったが、試合を重ねることで、その不安は消えていった。

 身体能力で言えば、皆本はケガをする前よりレベルアップした。ただ、長期離脱中に変化が起きたのはそれだけではない。中西は皆本に心の成長も感じていた。
「下級生の面倒を見るのも、上級生の役割です。その中で、皆本はケガをした後輩がいれば、相談に乗ってあげたり、アドバイスをしてあげたり……。そういう周りに対する気遣いがよりできるようになったと感じましたね」

 それは本人にとっても大きな変化だったようだ。
「私はケガをするまではずっとコートの中にいました。なので、コート外のこと、つまりサポートしてくれている人たちがどういうことをしているのかをあまり意識していなかったんです」
 リハビリ期間中、皆本は練習や試合でサポート役に回った。その時に「試合に出られない人たちは、プレーしたい気持ちを抑えて、私たちを支えてくれていたんだな」と改めて実感した。

「復帰してからは、“周りで頑張ってくれている人たちのためにも一生懸命プレーするんだ”という思いがすごく強くなりました」
 苦しい時期を乗り越え、一回りも二回りも成長してほしい――。指揮官の思いに応えるように、皆本は心身ともに成長してコートに戻ってきた。そんな彼女は、08年12月の全日本インカレ後、筑波大女子バレー部のキャプテンに就任した。その中で臨んだ大学最後の1年間で、皆本は大きな飛躍を遂げることになる。

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(第4回へつづく)

皆本明日香(みなもと・あすか)
1988年2月、徳島県生まれ。城南高、筑波大を経て、2010年、Vチャレンジリーグの上尾メディックスに加入。小学5年からバレーを始める。中学3年時には徳島選抜としてJOC杯に出場。高校時代には春高バレーに2年連続出場を果たし、全日本ユース代表にも選ばれた。06年、筑波大へ進学。大学2年時に左ヒザ前十字靭帯を断裂するも、約半年のリハビリ期間を経て復帰。4年時にはキャプテンとしてチームを関東リーグ、全日本インカレ制覇に導く。09年に上尾へ加入が内定。09−10シーズンは内定選手としてリーグ戦を経験した。正式加入後の10−11シーズンでチャレンジリーグ最優秀新人選手賞を獲得。昨季は同リーグ敢闘賞を受賞した。ポジションはウイングスパイカー(レフト)。豊かなジャンプ力と長いリーチを生かした高さのあるスパイクが武器。身長175センチ。背番号16。



(鈴木友多)
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